お彼岸を前に
独身時代は比較的自由になる時間があり、その間によく勉強した。通訳をすることが好きで本格的にこの仕事に就き、業務のたびに新しいことを吸収できるのが何よりも幸せだったからだ。仕事の前も、そして仕事から帰ってきてからも、わからないことは自分で調べたり、拾えなかった単語をおさらいしたりした。自分の中の好奇心の引き出しがどんどん増えていくようで楽しかった。
その後結婚して子供が生まれ、自分を取り巻く生活環境は大いに変化した。以前のように好きな時間に睡眠をとったり、食事を二の次にして勉強に励んだりということはできなくなった。たとえば先月。確定申告の準備やら担当クラスの教案作成、子供の通園先の手続き書類記入、そしてなぜか2月にしては多かった通訳業務など。これらすべてを家事、育児、仕事の合間にこなしていくのは時間との戦いだった。以前ならさっさと済ませられたこと、たとえば子供の服の名前書きなどといった単純作業でさえなかなか取り掛かれず、服がソファに数週間置きっぱなしになった。あるいは隅々まで掃除できず、見かねた4歳の長男が掃除機で嬉々として吸い取ってくれたこともあった。
共働きの家はどこもこんな感じだと思うが、改めて「自分にとっての無限大の時間はもう存在しない」としみじみ思う。家族が増えれば、または仕事などの社会的責任が増えれば、自分のための時間というのは必然的に少なくなる。じっくりと勉強したり単語帳を整理したりという贅沢は許されなくなり、その分、誰かのために自分の時間を費やすことになるのだ。
しかしふと考えた。そもそも通訳・翻訳作業は「コミュニケーションを円滑にするために自分の時間を提供するもの」ではないかと。ともすれば通訳の現場では「今日は単語が拾えた!」または「あの文章を落としてしまった・・・」と、まるで千本ノックをすべて拾えるかどうかのごとく、一喜一憂してしまう。しかし仕事現場は自分で自分に合否決定を下す場所ではないはずだ。
人のために自分の時間を提供すること。これは仕事先や家族だけでなく、たとえば近所づきあいや法事なども含まれる。独身時代の私は親戚づきあいも薄く、お墓参りなどもなかった。しかし結婚して新しい「家族文化」に身を置くことで、時間というものは独り占めしてはいけないことを知った。お彼岸を翌日に控えた今日、改めてそう考えている。