なぜ完璧を?
作家でロシア語同時通訳者の米原万里さんが亡くなった。
米原さんの著書は何冊か拝読しており、そのユーモアのセンスや同時通訳者としてのあり方など、学ぶことが実に多かった。まだ56歳という若さ。今後の作品を期待していただけに残念でならない。
米原さんの訃報を読み、命について考えた。
我が家には子どもが二人いるが、生まれたときは「とにかく元気でさえいてくれれば」と思った。もちろん、今もそう思っている。ところが生きていけばその後おびただしい情報が入ってくる。「離乳食も有機栽培の素材を」「外遊びは一日最低一時間」というものから、「地球温暖化により皮膚がんのおそれがあるので、外遊びは避けるべし」といった忠告まで。こうした大量の情報に母親は振り回され、混乱する。さらに年齢と共に様々な人生上の選択や悩みが待っている。たとえば幼稚園をどうするか、習い事をさせるべきか、ということに始まり、今の義務教育は大丈夫なのか、などなど。我が家はかなりのんびりしている方で、夫も私も特に焦ってはいないが、それでも時に母親としてまだ強くない自分自身に気づく。特に周りと比較してしまったときは大いに気持ちが揺れる、そんな弱い自分がいるのだ。
人間というのは、ひとつの段階をクリアすると、より高次元をめざす動物だと思う。「とにかく命さえあれば」という条件を満たすと、次の欲が出てくる。これは子どものことだけではない。自分自身もそう。身近な例で言えば通訳業務のときさえそうだ。クライアント名、集合場所および時間を把握し、辞書と筆記用具さえ持っていけば何とか仕事にはなる。しかしそれだけではどういう内容の業務かわからず、まともな通訳ができるか不安だ。だから「資料を」ということになり、さらに「パネリストのスクリプトは?」という具合にどんどん求めるものが出てくる。それらを事前に入手できず、当日直前に手渡されれば大いに焦るのは目に見えているからだ。そして焦りと共に「資料があったのなら、昨日の夜中でも良いから入手できれば良かったのに・・・」と恨めしい気持ちにさえなってしまう。
ところが先日、あるシンポジウム通訳の帰路、ふと考えた。とりあえず予習の段階でできる限りの勉強はした。資料も隅々まで読み、私なりの準備態勢は整えた。会場でも集中力を途切れさせぬよう、最善を尽くした。だからできなかったことを悔やんだり、様々な不備条件を反芻したりしても仕方ないではないか、と。なぜ完璧を求める?それは自己満足にすぎないのではないか。滞りなく会議が済んだのであれば、それでひとまず終止符を打っても良いはずだと思った。今日も無事生きている。仕事があり、雨露をしのげる家もある。そう思いながら、家族の待つ家へと急いだ。