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日記の日

かの

通訳・翻訳者リレーブログ

 最近は様々な記念日が制定されているが、今日は「日記の日」。ということで私と日記にまつわるお話を。
 日記を始めたきっかけは小学校2年のとき。父の転勤で海外に暮らすことになり、現地では毎週土曜日に日本語補習校へ通い始めた。週一回、しかも午前中だけ日本の教科書を使って国語を学ぶというもの。補習校では日々、日記を書くのが義務付けられていたのだ。ノートは毎週先生に提出。当時のクラス人数はわずか10人ほど。それでもそのノートを読んでコメントを書く担任も大変だったろうと、今、教える立場になって改めて思う。一方、わずか8歳の子どもにとって毎日の出来事をノートに、しかも縦書きで記入していくのもなかなか忍耐力を要するものだったのである。
 ネタのある日は良いが、何もない日は「今日は何もしませんでした」と書くほかなかった。絵心もなかったので、この一行だけ。ところが先生は「何もしなかった日は考えたことや感じたことを書きましょう」とコメントしてくる。そんなやり取りが我慢比べのように続いたこともあった。
 当時の駐在員社会は閉鎖社会だった。住んでいたマンション名だけで父親のステータスが測られる時代。商社、銀行がエライ時代だったのだ。その不自然なしわ寄せが子どもたちの世界にも見られた。つまり、いじめである。当時、あるボス的存在の子がおり、期間を定めて徹底的に一人を無視するということをやっていた。追随しなければ自分もターゲットになりかねない。子どもたち誰もが恐々暮らす日々だった。ひとつ年上のそのボスに立ち向かうだけの強い心は私にもなかった。辛かったがどうしようもなかったのである。ボスのいる前では被害者の子と話すことはできない。でもいないときにはおしゃべりしたり、遊んだりしていた。いじめられていた子の母親は、ボスを含む友達全員を家に招き、「もういじめないでね」と懇願するように述べていた。その悲しそうな瞳は今でも目に焼きついている。
 私はこのいじめが許せなかった。怒りを子どもなりの表現で日記に書き始めた。先生は花丸をつけ、コメントとして力強いメッセージと激励の言葉を書いてくれた。親でもなく、友達でもなく、ただ週一回しか会わない先生。でもこの先生に理解されたことは、狭い社会に生きる私に新たな光を与えてくれた。万が一、日記帳をなくして誰かに読まれれば、私が告げ口したことはバレるだろう。それでも構わなかった。先生に理解されたという、この絶対的な安心感。これが私の大きな柱となった。

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記事を書いた人

かの

幼少期を海外で過ごす。大学時代から通訳学校へ通い始め、海外留学を経て、フリーランス通訳デビュー。現在は放送通訳をメインに会議通訳・翻訳者として幅広い分野で活躍中。片付け大好きな2児の母。

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