「話せる=理解している」わけではない
昨年私にとって最大級ビックリ業務は某ウィスパリング会議。担当者から「関連資料はありません」と言われていざ現地に赴くと、机の上には電話帳数冊分の資料がデーンと待ち構えていた。しかも出席者は取締役レベル。すべて前日の依頼時に聞いていないことばかりだった。英語で言うなら’one of the toughest job’、直訳すれば「今まで受けた中で最もキツイ仕事のうちの一つです」ということになる。
しかしこうしたパターンは最近珍しくない。取締役レベルの会議なら相当前から日程が組まれていると思うのだが、なぜ直前の依頼なのだろう?担当者は会議準備に忙殺されて通訳発注が後手後手に回ってしまったのか。真相は私にはわからない。いずれにしても通訳者はこのような業務の際、自分の持てる力を最大限出して通訳するのみである。大量の資料もその場でサイトラし、何とか形だけはA言語をB言語に置き換えて進めてゆく。最後の一句を訳し終えたときは心身共に別世界を浮遊しているかと思うほどヘロヘロである。
発注側にしてみれば、致命的なミスもなく何とか言語変換が滞りなく行なわれていたならば無事業務完了となるのだろう。しかし通訳者にとっては不完全燃焼だ。辛うじて訳せたからといって概念そのものを理解していたわけではないからである。資料が事前にあるのなら、根本的な部分から勉強しておきたいのが本心だ。
ところが自分の仕事においてはこう思っているのに、私自身、同じことを子どもたちにやってしまっていた。それは子どもたちの発話だけを聞いて、彼らが理解していると早合点していたこと。5歳の息子も3歳の娘も最近は爆発的におしゃべりする。息子など「夕方になったから明かりがともっているねえ」と、私が惚れ惚れするような日本語をさらりと述べたりする。それでつい「話せるからわかっている」と思い込んでいたのだ。なのに日常生活で同じことを何度注意されても繰り返してしまう子どもたち。いったいなぜだろう?
それでふと気がついた。子どもはボキャブラリーを駆使するとは言え、概念はまだ理解できていないのだ。つまり私の「手探り通訳」と全く同じ。きっと彼らにしてみたら、「もっと根本的な考え方をわかりやすく説明してから叱ってよー」ということなのだろうなあ。反省するガミガミ母さんである。