フシギな習慣
日々の暮らしの中で「何だかフシギだなあ」と思える習慣が色々ある。たとえば息子の幼稚園。運動会終了時には記念品と称して袋いっぱいのおもちゃが配られる。個人的にはインパクトのあるものを一個いただいた方が良いのだが、どうやら「数は多い方が良い」らしい。色鉛筆やブロック、ノートなど細々したものが沢山入っている。すでに家にあるものと重複してしまい、中にはあっという間に壊れてしまうものも。そんなことならむしろ先生直筆のカードだけの方が親としては嬉しい。たとえば練習での取り組みやクラスとしてどのように運動会を迎えたかということがそのカードに書いてあれば、子どもたちにとっても記念になるはずだ。
もうひとつ、先月のこと。クラスで転園していく子どもたちに皆で一枚ずつカードを書き、それを束ねてサイン帳として渡した。ところが何と、転出する子それぞれが子どもたち全員へお返しのプレゼントをくれたのだ。保護者の方は引越し準備でかなり忙しかったはず。なのに女の子・男の子用に頭数分のプレゼントを揃えてくださった。かえって申し訳なく思ってしまった。
そしてもう一点。娘の保育園では3月末で保育士数名が退職した。しかし園児や保護者には事前のお知らせがなく、4月の登園時に初めて知ったのである。お世話になったのでせめて一言お礼を言いたかった。でもこれは上記の逆で、なまじ事前通知してしまうと保護者が記念品を心配してしまうかもしれない。保護者へ負担をかけるまいという園側の配慮とも思えた。が、もちろん真相は不明だ。
こんな具合でここ最近、フシギな習慣が何となく気になっている。しかしこうしたことは通訳の世界でも言えるのかもしれない。たとえば「事前に資料ください」攻撃。通訳者としてはとにかく念入りな準備が命なので、口がすっぱくなるほど「資料、資料」と言う。しかしクライアントが今ひとつ状況を把握していなければ「一体なぜそんなにうるさく資料をほしがるのだろう?」とフシギに思われかねない。
物事にはそれぞれ理由がある。お互いにきちんと背景説明をして初めて理解は深まると思う。