消えゆく母校
通っていた母校がなくなることになった。
同窓会の通知には、別の学校との「統合」と書かれていた。しかし実際には「吸収」である。
私は幼少期、父の仕事の関係で英国に暮らしていた。その学校に入ったのは小学校4年の時。英語はまったく話せず、当時は日本人も少ない時代だった。私はその学校で二人目の日本人だった。
言いたいことも言えず、授業では答えが分かっているのに発言できず、差別されても反撃できないのは本当に辛かった。しかも当時は日本の捕鯨が問題になりかけた時。生物の授業で先生がその話をした際、前の列のクラスメートが私の方を振り向き、‘Shame on you!(恥を知れ)’と言った。その時の彼女の表情は今でもよく覚えている。
転入当初はそうした抑圧されたような日々が続いていた。自分にできたのは、せいぜい言葉以外でも競える分野、つまり数学と音楽でトップになることだった。もちろん、上には上がいたけれど、せめてピアノを一生懸命練習し、数学のテストではなるべく良い成績を収めようと努力したのである。これは自分に運動能力がなかった分、それしかエネルギーを注げる科目がなかったからである。
こうした時期がしばらくあったのだが、そのうち友達もでき、英語も話せるようになった。そんなころに父の帰国命令。まさに青天のへきれきだ。私は「一人暮らししてでもいいから残る」とか「もっとイギリスにいられるように、会社に頼めないのか」といった無理難題を言って両親を困惑させた。それも実現できないことがわかると、帰国への心づもりをするようになった。
最終日の前日。両親が校長先生へ今までのお礼にと、日本人形をプレゼントした。翌日の礼拝の時のこと。校長先生はその人形を大事に持って、講堂に姿を現したのである。そして礼拝では、私がいよいよ今日で日本に戻ってしまうこと、でもこの日本人形が日本とイギリスを結ぶ象徴であることを全校生徒の前でおっしゃった。お話が終わると、全員が私の方に向かって拍手をしてくれたのである。今まで学校関連で悔し涙は何度も流してきたが、うれし涙はこれが初めてだった。
その学校が、少子化のあおりを受けて、もはや単体では存続が難しくなってきたのである。そこで近くの別の女子校と統合することが決まった。今までの校名もなくなり、あのイギリスらしいネイビーブルーの制服も、統合先のブラウンの上下に統一されることになった。まさに時代の終わりである。しかし、校舎は残るという。いつか子どもたちを連れて、「お母さんはこの学校に行っていたんだよ」と笑顔で言える日が来ることを願っている。