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砂の中に頭を突っ込んではいないか

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

ある時、ある学校で、「通訳」の名を冠した授業をしていたときのことです。真珠湾攻撃の話になり、95年に真珠湾のアリゾナ・メモリアルを訪れたときのことを生徒に語りました。話が終わると、ある生徒が小首をかしげながら、

「でも、先生さあ、何で日本は真珠湾を攻撃したの?」

と言うのです。

「え?だって、アメリカと戦争することになったから、先手必勝で叩いたんだよ。逆効果だったけどね」

と言うと、

「何で!?だって、日本はアメリカと一緒に、ドイツと戦ったんでしょ?」

と驚いた顔をしています。これは何とかしなければと、授業の残りの時間は、日清・日露から第2次世界大戦までを一通りおさらいすることに費やしました。

先日のブログでも書きましたが、日本の学校における「通訳」の授業は、実質的に「英語」の授業です。生徒も学生も、「英語が使える(多くの場合は話せる)ようになりたい!」と思って授業を受けています。

しかし、英語を学ぶ上での最終的な問題は「英語」という「道具」を使って、何をコミュニケートするのかということではないでしょうか。

よく言われることですが、「言葉」は諸刃の剣です。人と人を結びつけもすれば、人と人が傷つけあう原因にもなります。良く切れる包丁は、美味しい料理を作る便利な道具にもなれば、効率的な殺人の道具にもなるのです。要は、英語という「道具」を使って、「何をするのか」ということが肝心だということではないでしょうか。

英語の教科書には、何やら理想的なシチュエーションのもと、フレンドリーな人しか出て来ませんが、実際には友好的な状況下では、言葉はそれほど重要ではありません。ニコニコしているだけでも良いのです。問題は、相手と自分の意見が対立しているようなときに、どう事態を切り抜け、収拾することが出来るかということですよね。

そうなってくると、様々なことを知り、それに対してどう考えているかという点が、非常に重要になってきます(もちろん、それ以外の要素もいろいろありますが)。

様々なことを知るという中でも、私を含む日本人に欠落しがちなのは、「政治の延長としての戦争」についての知識だと、イギリスに留学をしたときに感じました。どんな流れの中だったのかは忘れましたが、パブで会った2人組の大学生にフォークランド紛争のことを聞いても、紛争当時小学生ぐらいだった彼らが、実に理路整然と自分の考えを述べるのです。私は「そういえば、ミサイルが命中して、イギリスの軍艦が沈んだなあ」ぐらいの記憶しかないのですが、彼らは「なぜあの戦いがイギリスにとって欠かせないものだったのか」をパブで滔々と語っていました。

自国の戦いを正当化するのが良いことだと言いたいのではありません。しかし、あそこまであれこれ語れるほど、フォークランド紛争が国民全体が共有する知識として一般化されていることは、第2次世界大戦に対する一般的日本人の場合と大きく異なるなと感じたのです。

半ば「大したものだ」と思い、半ば辟易しながら聞いていたのですが、そのうち「何で日本は太平洋戦争を始めたんだ。馬鹿げているじゃないか。しかもパールハーバーみたいなsneak attack(だまし討ち)をするから、原爆を落とされるんだ」などと、矛先がこちらに向いてきました。酔いも手伝って、目の前がグルグル回り出します。のんびり飲んでいたはずなのに、何でこんなことになったのか。多分、私の言動の何かがまずかったのでしょう。

周りの数人の酔っ払いも、黙ってこちらを見ています。暖炉の中で火がパチパチとはぜていました。

幸いなことに、その数週間前に、授業の調べ物で第2次世界大戦に関してあれこれ調べていました。そこで、開戦にいたる日本側から見た経緯と、真珠湾攻撃と原爆投下を結び付けて考えることの問題点を指摘し、さらには、高校の世界史で学んだイギリスの植民地経営についての知識などを総動員して、何とかかんとか、ボロボロになりながらも反論めいたものをしたのですが、どうも上手く分かってもらえませんでした。

2人が「やはり日本の姿勢は問題だと思う」と言いながら立ち去ってから、しばらくかけて苦いビールを飲み干し、川沿いのパブを後にして橋を渡り、敗北感に打ちひしがれながらバスで大学の寮に戻りました。

私の英語がまずかったのはもちろんのことですが、政治の延長としての戦争に関する知識と、それに基づく自分自身の意見形成の不足が、コミュニケーションが上手く行かなかった大きな要因だと感じたのです。

そんな経験があったので、冒頭の「事件」には衝撃を受けたのでした。あのクラスでは、1週間に1冊ずつ、ブックレポートを生徒に書かせていたのですが、その課題図書リストに急遽戦争関連のものを追加して、読むように勧めてみました。「火墓るの墓」など、定番のものには一定の反響があったのですが、中には「戦争のことを知ると悲しい気分になるので、知りたくない」「戦争の本を読んだら、戦争好きになってしまうから読みたくない」とわざわざ言いに来た生徒もいました。

気持ちは分からないではありません。確かに、知って愉快になる知識ではありませんし、戦争関連の本には、戦争礼賛的な口調が出てくるものもあるでしょう。ただ目をそらしてはいけないこと、知っておかねばいけないことがあるのも、これまた事実だろうと思うのです。その生徒たちにはそう伝えましたが、あまり納得はしていないようでした。

head in the sandという表現があります。「現実逃避」とか、そんなような意味合いの表現です。ダチョウは危険が迫ると、砂の中に頭を突っ込んで、「自分には危険が見えないのだから、危険の法からも自分が見えないに違いない」と思い込む、という言い伝えから来ているのだそうです。

戦争に関しての日本人の態度には、どうもこの姿勢が見え隠れしているような気がしてなりません。戦争から目をそむけ続けていれば、戦争のほうでも日本から目をそらしてくれるのではないか、という根拠なき思い込みがあるのではないでしょうか。日本が戦争を放棄しても、戦争のほうでは日本を放棄してはいないのが、現在の国際社会の悲しい現実です。英語を学んで、そのような社会に飛び込むというのであれば、やはりそのことに対する知識をしっかり身につけていって欲しいと思うのです。

通訳学校で、「先生、私、軍事関係の知識には興味なくて」という人が放送通訳者志望だったり(イラクや、アフガニスタンなどのニュースに、それでどう対応するつ

もりなのでしょう)、大学で「私、翻訳者になりたいんです」という学生が、ポール・ティベッツ氏の死亡記事を題材にした翻訳課題で、「エノラ・ゲイ」という言葉が何を指すのか調べもしないまま訳文を書いていたりする現状は、かなり問題があると思っています。

また、一つハッキリさせておきたいのは、戦争について知ることは、戦争に対する盲目的な批判とは異なる、ということです。盲目的な批判は、盲目的な礼賛と同じぐらいに問題があることだと思います。

先日、「パパ ママ バイバイ」という本を読みました。これは1977年に横浜で起きた、アメリカ軍機の墜落事故を扱った絵本です。地上にいた幼い兄弟が亡くなり、その母親も治療の甲斐なくなくなったという痛ましい事件で、墜落直後に来た自衛隊のヘリは無事パラシュート降下した2人のパイロットを乗せて飛び去り、その後に来た米軍も、墜落機のエンジンなどの部品を持ち去っただけ。結局119番通報したのは住民だそうです。

子供たちに読ませようと思ったものの、結局やめました。意図的なのか無知なのか、事実とは異なる記述が目に付くのです。「最大限のスピードで激突し」(離陸直後なので、それほどスピードは出ていないはずです)、「マッハ2.4もの高スピードを持つジェット機が激突したのですから」(音速を超えていたら、ただ飛んでいるだけでも地上には様々な被害が起きます)、「『2〜4機編隊・十秒間隔=タッチ・アンド・ゴー作戦』で飛び立ち」(意味不明。着艦訓練ならばタッチ・アンド・ゴーという緊急機動の訓練はするでしょうが)といった記述が引っかかって、素直に読めないのです。書いてある詩もよいのですが、「事実の記述」には不適切に思います。

記録か、感情をかき立てる行動の起爆剤か。後者に偏った記述でしたが、むしろ前者に徹した方が、後者の目的を効果的に果たせたと思うのです。痛ましい事故に対する憤りの気持ちは、私も強く感じるのですが、それが原因で事実に対する目を曇らせてはいけないのではないでしょうか。

愉快なことではないにせよ、戦争に対しての知識を深め、バランス感覚を磨いて行きたいと個人的には考えています。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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