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当世子ども事情

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

「ハレ」の日との対立概念としての「ケ」の日が、ウチの子どもたちには必要なのではと思う。何が言いたいのかというと、自分の子供時代の観点から見ると「めったにないイベント」が結構目白押しで、「めったにないこと」に浮き立つ気分や、そういう貴重な機会だから、出来る限り愉快に過ごそうという気持ちが、どうしても希薄になるのではということだ。

今月だけを見ても、中止になったものを含めて、「スキー」「古墳で土器を使って古代米を炊くイベント」「県内北部にある青年の家での一泊イベント」などなど。

それ自体が問題だというのではないが、子どもとしてはあまりに「受身」になってしまうのではないだろうか、などと思う。つまり、「受けとる」だけの娯楽にさらされ続けると、自分から楽しみを見つけて、アクティブに人生をエンジョイする力が鈍るのではないかと思うのだ。先日小学校の授業参観と懇談会に出てきたが、「冬休みを振り返って、どうでしたか?」という先生の質問に対して、「ゲームのやりすぎ」という声が何人もの保護者から上がったのが印象的だった。

ゲームそのものは、たまにやる分には面白いと思うし、そんなに悪いものではないと思う。しかし、「何か面白いことないかなー」と考えるのは面倒くさい作業でもあるので、「ま、いっか。ちょっとやり飽きたけど、とりあえず時間はつぶせるし」みたいな感じで、ゲーム機のスイッチを入れてしまうというパターンに、人間どうしてもなりやすい。ゲームそのものというより、ゲーム依存症がまずいということだ。「ゲーム」を「テレビ」やら「インターネット」などに置き換えても同じこと。

昔はとにかく「退屈」だった。夏休みは他にすることもないので、面倒くさくても友達に声をかけて集めてまわり、日がな一日あれこれ遊びを考えて悪さをしていた。農家の裏庭のアシナガバチの巣を「退治」してみたこともあった。ハチにしてみればとんだ災難だったろう。それから缶蹴りも流行ったなあ。かくれんぼと鬼ごっこの要素が合わさっていて、あれはあれでなかなか奥が深い遊びなのだ。

あれ、お昼なんかはどうしてたんだろう。共働きだったから、何か作り置きをしてもらっていたのだと思う。小学校高学年ぐらいから台所でちょっと火を使う程度のことはやったし。とにかく、一日遊んでいたような気がする。飽きもせず缶蹴り。意地悪されて一日鬼にされたり、逆に鬼を置いてきぼりにしてみたり。まあ、それもアイス一本と「ごめん」の一言で解決したものだが。缶蹴りでなければ野球。木刀を持って裏山での探検。秘密基地作り・・・。

何もすることがない。時間だけはたっぷりある。何をしよう・・・。

自宅の2階の電話のそばに座りながら、「いかん、こんなことじゃいかん。何かしなくちゃ」と思っていた高校生の夏休みのある一日を、今でも鮮明に覚えている。「自分は何を『面白い』と思っているのか」と考える時間が、自分にはたっぷりあった(ありすぎたと言っても良い)。今はゲームやら、イベントやらで、そうやって自分と向き合う時間がないのではないか。そういう延々と続く「ケ」の日があったからこそ、「ハレ」の日である旅行をはじめとする「お出かけ」では、普段とはまた違った世界との関わり方が出来たのだ。

昔はもう少し自分から楽しみを探す姿勢があったのではないだろうか。二言目には「退屈」「今日は、どこか行かないの?」という息子を見ていると、ちょっと心配になる。

私が子どもの頃は、とりあえず庭に出れば、何かがあった。アリの行列を観察したり、バッタがいたり、サツキの花の蜜を吸ってみたり、柿の木に登ってみたり、蝶を捕まえようとしてみたり。でも今住んでいるマンションには、庭がない。

遊びに行く友達の家もなければ、自分の家に友達が遊びに来ることもない。遊んでいる子どもを見守る地域社会も、昔とは目線が違う。構成員も違う。自分の子供時代しか参照するものがないので、特にそう思うのかもしれないが。子育てをすることで、これほど時代の変化を感じるものか。

・・・などとおでんの屋台とコップ酒が似合うようなことを、このところ延々と考えていた。土日のキャンプに行くまでは。

使い古された言い方だが、子どもは遊びの天才だ。野外炊飯をしていても、全てを遊びに変えてしまう。息子がいわしを七輪で焼くのにあれほどはまるとは思わなかったし、娘が幼稚園のおゆうぎを1人で踊っているうちに、いつの間にか現地で出会った同年代の子と一緒に踊っていたり、子供同士あっという間に仲良くなって遊び出したり、「おお、積極的に世界と関わっているじゃないか」と今更ながら見直してしまった。

要は、親の側が「どうだ、こんなすんごい経験、そうは出来ないんだぞ!」と思っていただけなのかもしれない。子供の側にしてみれば、今ひとつツボを外していて、燃える気分にならなかったのかもしれない。今の時代に子育てをするということ自体は変えられないのだし、今と自分が子供だった時代との間で、子供が本質的に変化したというわけでもないのだろう。数十年前の視点で子育てをしていた、ということのなのかもしれない。

キャンプでも旅行でも何でも良いが、非日常である「ハレ」の経験をすると、人間がそれぞれ持っている良い面と悪い面の両方が際立つように思う。

私自身もそういうことがあって、落ち込んだり「やるじゃないか、俺も」と思ってみたり。まあ、現代の子供だけではなく、当然大人たちも「ハレ」と「ケ」をサンドイッチのように重ねながら成長しているのかもしれない。

7〜8年ぐらい前にインターネットで発見して以来注目している「大西科学」さんの文体を真似してみたつもりなのですが、全然ダメですねえ。「本家」はもっと面白いですから、興味のある方は検査してお読みになってみてください。ちなみに大西さん、本業はどうやら理系の研究者のようですが、去年あたりからライトノベルも書き始めたようです。先日買ってみたのですが、なかなか面白い。ただ、あの表紙だと、いい年したおっさんである私は、さすがに電車の中では読めません。あ、カバー付ければ良いのか。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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