BLOG&NEWS

求ム「賢い消費者」

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

マグロの買い付けと「英語青年」休刊と通訳料金。落語の三題噺ではないが、これが今、頭の中をグルグル回っているトピックだ。

ちょっと前になるのだが、茂木健一郎さんの「プロフェッショナル・仕事の流儀」という番組でマグロの買い付けをやっている人を取り上げていた。その方の仕事の様子や仕事への哲学などを掘り下げて紹介する内容だったのだが、その中で印象的なことがあった。

マグロにも「ブランド」がある。青森県の大間など、名産地と呼ばれる場所があって、そこで取れたマグロは質もよく、値段も高いのだ。しかし番組に取り上げられた男性は、あくまで「美味いマグロ」にこだわる。ノン・ブランドで良いものがあれば、迷わずそれを買い付けるのだが、見ていてなるほどなと思ったのは、ブランド物と同じレベルの値段を払うことだ。

安く買い叩くことはもちろん出来る。しかし、それではそのマグロを取った地域の漁業が先細りになってしまう。そうなれば結局は良いマグロが市場に出て来なくなってしまう。それを防ぎ、産地を育てるための値段付けだという。

続いて「英語青年」の休刊。英文学の専門誌として111年の伝統を持つ雑誌が、休刊することになった。原因は大学での購読が減ってきたためだという。仏文科・独文科につづき最後の砦だった英文学も衰退し、結果的に英語青年の購読者数が減ってしまったということらしい。また、「英文学の研究者は書くにしても読むにしても海外の英文誌に直接、目をむける流れが強まっている」とのことだ。

通訳料金に関しては、日曜日に通訳学校の短期教室を教えていて、ちょっと話題に上った。高い低いどころか、そもそも通訳者を雇わず、英語が出来る社員に通訳をさせることも増えている。

結局、「損得だけで動いて、プロとしての仕事を評価しないのは問題ではないのか」ということが、心に引っかかっているようだ。

マグロも通訳料金も、安ければやすいほど良い。大学での専攻も、就職の時に、あるいは実社会に出て「役に立つ」ものであるほど良い。その考えが行き着くところは、「プロ」の崩壊なのではないだろうか。命がけでマグロを取ったとしても、霞を食って生きていくわけには行かない。十分な報酬がもらえなければ、その技を柱に生活していくわけにはいかないのだ。

自力で英文を読み書きできるから、直接1次文献にあたる。それはそれで良い。むしろ積極的にそうするべきだとは思う。しかし、プロである編集者のフィルターを通してまとめた情報にも、目を通しておくべきではないだろうか。そうではないというのであれば、新聞もテレビニュースもいらず、インターネットと2ちゃんねるだけあれば良いという極論に行き着きはしないか。

大学の英語教育にしても、文学の低迷に反してTOEICをはじめとする資格試験対策は花盛りだ。しかし、資格試験はあくまで資格試験なのであって、それイコール英語の勉強ではないと思う。「そちらが得だから」という考えは、「入試で世界史はいらないから、勉強しない。その方が入試科目に時間を注げて得だ」という考えともどこかでつながる。目先の「得」を取ることで、本質的な「損」を抱え込んではいないだろうか。

ものによっては、プロとアマの差は、ほとんどないかもしれない。またはその差がアマには見えにくいかもしれない。しかし、その差は例えわずかでもあるのであって、そこを「買う」という考えが大事なのではないか。

もちろんプロの側でもそのようなアマチュアからの「投資」にあぐらをかいていてはいけない。その期待にこたえるパフォーマンスを常に発揮していかねばならない。それが「お金をとる」ということだと思う。

見方を変えれば、ブランド産地以外の産地は、消費者の期待に十分にはこたえられておらず、「英語青年」は読者の求める情報を提供できず、通訳者はクライアントを満足させられていないということなのかもしれない。

しかしそれでも、あまりにも「安ければ良い」「お得ならば良い」という行動原理が全面に押し出されすぎている気がするのだ。その2つが全てを動かしていくとすると、なにやら薄ら寒い世界につながっていくように思う。そんな世界を、誰もが本当に望んでいるのだろうか。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END