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斉藤兆史先生の意見に思う

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

8月1日の朝日新聞に、東大の斉藤兆史先生が大学入学以前の英語教育について対談を発表していらっしゃいました。

いろいろうなずけることが書いてありましたが、私が特に「そうだなあ」と思ったのは、以下の下りです。

(引用ここから)
生徒たちが将来、自分の目的や動機に応じて学習を積み上げていくための土台を作ることに徹底すべきです。文法と訳読の基本を身につけておけば、会話力も高度な運用力も、自分でのばしていくことができる。
(引用ここまで)

現場で指導している教員には、非常にうなずける意見です。

そもそも英語指導において、定量的に「このぐらいやれば、このぐらい伸ばせる」と分かっているのは、文法訳読方式ぐらいではないでしょうか。

以前塾の教員をやっていましたが、ベテランの教員の中には、「この単元の習得には経験的にこのぐらいかかるのが一般的だから、あの生徒の受験に間に合わせるためには、このぐらいの追加指導が必要だ」と予想し、かなりの確度でその通りの指導を展開していました。

受験英語の指導は、期限が明確に区切られているため、このような確実に積みあがる指導が不可欠なのです。

ただ、突き詰めれば「とにかくこの規則を理解しろ。頭に詰め込め」という指導ですので、一部の文法マニアを除いては、楽しくはありません。食事で言うと、プロテイン・ドリンクのようなもので、味も素っ気もありません。でも、食べてトレーニング(問題を解くなど「知識」を「スキル」に変える行為)をすると、確実に筋肉(読解力)はつきます。

これに対して、「どうしてもあの味がダメ」と放り出す人が増え、「いくら体に良くても、食べてもらえなくては何にもならない」と、文法訳読のアンチテーゼとして「コミュニケーション重視」という声が上がったのだと思います。そこに真実がないとは言いません。イマージョン教育のように、徹底して英語漬けにするというやり方には、それなりの効果は当然あると思います。しかし、そこまではやり切れていない以上、「コミュニケーション重視」の指導法の存在を以って、文法訳読を否定できるという理屈にはならないはずです。

もちろん、何でもかんでも「文法訳読」をやっていればOK、と言っているのではありません。それを補完するトレーニングは必要だと思います。しかし、補完する必要があるからと言って、文法訳読を全否定するのはどうかと思うのです。

私は英会話学校でも指導していたことがありますが、塾とは指導の考え方が180度違いました。

英会話学習には、通常『締め切り』はありません。逆に、出来るだけ指導を引き伸ばした方が、利益が上がるわけです。

しかし、単に話させるだけでは、すぐに飽きてしまって続けてもらえません。そこで様々な『くすぐり』(わざわざシミュレーションするまでもない状況を作り出してのシミュレーションや、ゲーム的要素など)を入れていくことになります。

食事でたとえれば、砂糖をかけたり、シロップ漬けにしたり、カレー粉を振ってみたりという感じです。しかし、生徒は週1回、多くても2〜3回、1時間ほどの「指導」という名のエンターテイメントを「楽しむ」だけなので、ミスを直す気もそれほどなく、半年通って得たものは「度胸」というケースも珍しくありません。

口当たりは良い。だから食べ続けはする。しかし、それによってどれほどパワーアップするのかは、未知数です。効率が悪い勉強法とも言えますし、典型的な(悪い意味での)「お稽古事」だと言って良いでしょう。続けること自体に意味を見出すわけです。

しかし、本来英会話学校は自動車教習所のような存在でなければいけないはずです。教習所のコースで運転し続けることに満足感を覚える生徒を量産するというあり方に、個人的には疑問を感じます。

筋肉(読解力)を付け、英語の海を泳いでいく準備をするにあたり、「文法訳読」と「コミュニケーション重視」方式の、どちらか効果的な指導なのかは、明らかなのではないでしょうか。個人的にはそもそも後者が本当に「指導」と言えるのか、疑問に感じています。

そして、大学受験という「期限」のある(これは受験そのものという意味ではなく、それまでに一応は自分の学ぶ分野の文献ぐらいは、そこそこ英語で読みこなせる力をつけるという意味です)学習を強いられる中学生・高校生に、そのような期限のない、むしろ期限を無限に先延ばしにするような指導法を当てはめることの矛盾を強く感じるのです。

もちろん、議論の前提は揃えなければいけないと思います。どのようなモチベーションと目標を持つ生徒を教えるのか、という点です(それ以前に、何を持って「文法訳読」、「コミュニケーション重視の指導法」と定義するかという問題もありますが)。

大学で学生を指導していると、英語を使ってどのようなコミュニケーションをしたいのかという視点がかなり欠落しているように感じます。

「友達を作りたい」「世界を肌で感じたい」

という程度でしょうか。一言でいえば、非常に「浅い」交わりを目的にしているわけです。その程度ならば、現行の「文法なんて気にしない!間違っても良いからどんどん話せ話せ!」という掛け声の下に英単語を並べ立てて大げさなジェスチャーでもしていれば、十分達成できます。

皮肉も込めてですが、そういう意味では現代の英語指導のメインストリームは、実に時代のニーズに合致したものだと言えるでしょう。英会話学校に通っている人たちも、ガチガチと英語の修行をしたいんじゃなくて、英語を通して楽しい世界をのぞいて雰囲気を味わいたいだけなのかもしれません。そう考えれば嬉々として毎年受講料を払い続けるのも分かります。

斉藤先生のご意見に深くうなずきつつも、「恐らくこのお話は、学生たちの胸には届かないだろうなあ」という落胆にも似た気持ちを禁じ得ませんでした。

たとえば、空手道場で「カラテビクス・コース」を併設することに対して、「本当の空手の修行は、そんなものではない!それで強くなれるか!」と声をあげた達人に対して、「別に格闘家を目指しているわけじゃないしぃー」とか「格好よくダイエットできりゃ、それでいいじゃん」という声があがるような、そんな寒々とした状況が現在の「英語教育」というものを取り巻いているような気がします。

そのあたりを斉藤先生がどうお考えなのかも含めた「続編」を、ぜひ読んでみたいと感じました。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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