マリス・ヤンソンスのコンサート
ヤンソンスのコンサートに初めて行ったのは、イギリスにいたときのことだと記憶している。とにかく妻が大ファンで、僕も何度も聞いているうちに大好きになった。僕は音楽は好きだがクラシックファンというほどではなく、「同じ曲なら、指揮者の違いなんて関係ないんじゃない?」とすら思っていたのだが、初めて「あ、この人とそれ以外の人って、やっぱり違う」と思わせてもらったのが、ヤンソンスだった。
今日の曲目はベートーベンのバイオリン協奏曲と、チャイコフスキーの交響曲5番。後者は個人的に好きで良く聴いている。ダウンを喫したボクサーが立ち上がり、逆転勝利をもぎ取るがごとき第4楽章は特に好きだ。また、前者のソリストは五嶋みどりとあって、実に楽しみ。まだ聴いた事はないが、名声は僕でも知っているぐらいだし。
バイオリン協奏曲そのものも始めて聴くのだが、五嶋みどりのバイオリンの音にいきなり衝撃を受けた。ほかのバイオリンとは同じ楽器と思えないほど豊かな音がする。小さな音を出しているときでも、決して「弱い」音ではなく、どこまでも密度が高くて美しい音がした。
五嶋みどり自身のオーラもすごくて、鬼気迫るという感じだった。なんというか、髪の毛を鷲づかみにされて、彼女の目の前にガッと引き寄せられ、そのまま耳に音を流し込まれているような、一種マゾヒスティックな心地良さがあった。心臓がドキドキして、背中が汗ばんでくる。音楽を聴くことは、こんなにも体力を消耗することなのだと、初めて実感した。演奏が終わった瞬間は、かけられていた魔法を唐突に消し去られたような感じで、椅子の背に身を預けて「ふーっ」とため息をついてしまった。
休憩の後は、交響曲5番。ヤンソンスの指揮はいつもながら華麗で、指揮台の上を自在に舞っている。動と静のメリハリがついた動きで踊るように指揮棒を振ると、オーケストラ全体がひとつの大きな生き物のように呼吸を始めるのだ。緩急・強弱を自在につけたダイナミックかつ繊細な演奏で、曲の持つパワーと美しさを存分に聞かせてくれた。特に第2楽章のホルン独奏が、えもいわれぬ美しさだった。気がついたら眉毛をハの字にしたまま目を閉じて聴いている。魂を奪われたような感じというのか、作品世界に入り込ませてもらったというのか。
五嶋みどりとはまったく別の美しさだ。五嶋みどりの演奏は終わったあとに「開放してもらった」と思うような、緊張感に満ち溢れた、内面がそのままバイオリンからほとばしり出るような感じだったが、ヤンソンスの演奏は、「終わってしまうのがもったいない」という感じ。たとえていうと、朝の毛布の中のような、いつまでもくるまれていたいと思うような心地よさがある。演奏が終わった後も、帰途についてからも、何だかそんなやわらかさと心地よさに包まれたままで、不思議と優しい気持ちになれるような演奏だった。
帰りの電車の中で妻とパンフレットを見返していたのだが、ヤンソンスがインタビューで「楽譜はあくまで骨組み。音楽家が一生懸命勉強して、作曲家が本当に表現したかったことを汲み取って再現すべき」というようなことを述べていて、2人で深くうなずきあった。使うのが音楽か言葉かという違いだけで、考えてみたら演奏も通訳も、コミュニケーション行為には違いなく、そうであるからにはその真理はおのずと重なり合ってくるというわけだ。
まだ60代半ば。これからもたくさん素晴らしい演奏を聞かせてくれるだろう。1回でも多く、また妻と一緒に演奏を聴きに来たいものだ。この次にお会いするときには、僕自身ももう少し成長していたいなと思う。