老いるということ
コピーボタンを押す。機械がゴーッとうなり出し、どこかで部品が回転するキュッキュッという音がする。それが出し抜けに止まり、エラーメッセージが出た。
ため息をついて、イギリス人のプロデューサーに「また壊れたよー、このコピー機」というと、「ええっ?今朝直したばかりなのに」と怪訝な顔をされた。
BBC日本語部というと名前は格好がいいが、その実態はドアにうっすらと「衣裳部屋」という表示が残る、窓のない部屋に押し込められた弱小組織に過ぎない。コピー機の買い替えもままならず、修理をしながらだましだまし使っていた。
修理して完全に動くようになったものが、その数時間後に故障するのは、当初不思議な気がした。修理の手を抜いているわけではなく、機械が古くなるというのはそういうことだという。
入社してしばらくしてから遠縁の伯父を亡くした僕は、そのコピー機に何となく伯父を重ねていた。脳の血管が弱かったと言うが、超絶的な技術のある外科医がいたとして、その弱くなった部分に上手くパッチを当てたとしたら、どうだったのだろう。伯父は助かったのだろうか。
いや、そうなれば別の部分の血管が切れただろう。では、そこも塞げたら?塞ぎ続けたら助かったのだろうか?その結果他の臓器に負担が行っても、それも手当てをし続けたら?
「いやまあ、順番が来たら退場するのが自然だからね」と伯父が言っていたのを思い出す。自分の体は原子に戻り、それがまた再構成されて、あらたなものになるというのだ。別の物や別の命の一部になるのだと。
子供のころ、伯父の家にお泊りに行ったとき、ちょうど死の恐怖に初めて出会ったばかりだった。夜になって一緒に寝ながら「死ぬのが怖いんだ、僕」と言ったら、「そうだなあ、いぬちゃんには怖いものなんだろうけど、伯父さんには、何ていうかなあ、安らぎ、みたいたものでもあるよ」と言っていたことも思い出す。30年以上前の話だ。
でも、例えそうだとしても、まだ「再構成」などして欲しくなかった。まだまだ「修理」し続ければ、まだ元気になれたんじゃないだろうか。そう考えるのは大局的に見れば自然の摂理に抗うことであり、単なるエゴなのだろう。でも、大局的になど見たくないものもある。
あのコピー機も、さっさとスクラップにでもなれば、部品のプラスチックも鉄もリサイクルされて、あらたなコピー機に生まれ変われたのかもしれない。でも、結局4年半後に僕が退社するまで、彼は日本語部の部屋の片隅でキイキイと音を立て続けていた。その後、彼がどのような生活を送ったのかは、僕は知らない。