力なき正義は……
某月某日
6時半に家を出て大学へ。英語の資格試験の監督をする。配布物の配布で混乱があり、結構バタバタしたが、何とか終わった。リスニング・テストの内容が興味深かった。時計の話と足跡の化石の話。試みに声に出さずに同時通訳してみたが、こういう内容とこのぐらいのスピードなら、結構満足行く訳出が出来るな、と思う。
どんなに声優さんが「自然に」読んでいても、台本を読むのと自然な発話は明らかに違う。台本がある会話なら、結構聞き取れるのだが、研究室の外を行き来するネイティブ講師たちのおしゃべりは本当に聞き取りにくくて、そのたびに落胆してしまう。何にしても、あのリスニングテスト、みんな聞き取れたかな。
それが終わってようやく昼食を取り、さあシラバス書きに本の注文に書評書きに読書計画立てに頑張るぞ!と思っていると電話が鳴る。教務課からで、通翻課程から撤退を考えている学生がいるので、話を聞いて欲しいという。研究室に案内してもらった。
結局1時間半近く話していただろうか。結論から言うと、あまり上手く話が進まなかった。どうも僕はダメだな。気がつくと自説をゴリ押ししてしまっている。もっと相手に語らせて、自分は聞き役に廻らないと。無意識に「説得しよう」「教育しよう」としてしまうようだ。
英語の資格やら、キャリアデザインやら、教員免許やらいろいろ言っていたが、とにかく結論は今出さなくても良いから、自分が何をやりたいのか良く考えてご覧と言ったが、逆効果だったな。「やめてやる!」という方向に決心を後押ししてしまったようだ。何をやっているんだか。
次からは、
・聞き役に徹すること
・すぐ結論を出させようとしないこと
・長くても30分以内、極力15分以内にとどめること
に気をつけよう。紺屋の白袴というか、コミュニケーションを教えている教員が、一番コミュニケーションベタなのが笑うに笑えない。我ながら何とかせねば。
お茶を入れて呆然と飲んでいると、通翻課程の男子学生がやってきた。日舞をやっていて、今度の3月に所属する会のアメリカ講演に参加すると張り切っている。直前までの状況が状況だけに、彼の前向きな姿勢に救われた。
しかし、資格、か。
通翻課程を終了しても資格はもらえないけれど、教職課程を修了すれば教員免許がもらえる、か。
教育に関する資格を取ろうとする人の考え方としては、個人的にはいろいろ言いたいことはあるのだが、事実は事実。学生にしてみれば、「今学んでいることが、どう結果につながるのか」が気になって仕方がないのだろう。そして学生たちにとってみれば、大学生活の「結果を出す」というのはすなわち「納得の行く就職をする」ということらしい。
「納得の行く就職」どころか必死に大学から這い出した人間にはちょっと理解しづらいことだが、とにかく就職なのだ。そして、そのためにはとにかく資格なのだ。教員免許なのだ。TOEICなのだ。TOEFLなのだ。英検なのだ。
いくら「本当の学び」をうたってみたところで、学生のニーズを満たせなければ絵に描いた餅、空に描いたパイか。考えてみたら、1期生は掛け声をかけるだけかけて、細やかにケアしてあげていなかったなあ。かわいそうなことをした。
そうか、そんなに「英語の資格」が欲しいか。じゃあ取らせてあげよう。取れるように鍛えてあげよう。やれTOEIC600点だ、700点だとケチなことを言ってちゃいけない。TOEICなんざ、とっとと860点突破してAランク入りしないと。そのぐらいの力があってはじめて、本当の意味で英語を活用できるし、通訳・翻訳の勉強をするにしても、もっと深く出来るようになる。
すぐにはAランク入りは無理にしても、3年生ぐらいにはそのぐらいに持って行ってあげたい。
崇高な理念を掲げても、現実に対応できないのでは、それは脱落者も出るだろう。「力なき正義は無能」ってやつだ。じゃあ、力を付けてあげよう。力がついたら、本当の学びは、その先にあるんだということをもう少し分かってもらえるのではないだろうか。
帰宅して、2日ぶりに普通のコースをジョギングする。調子が良い。息が切れなくなった。一ヶ月足らずでこの変化だ。継続するって凄いな。1周しても余力があったので、さらにちょっとだけ走ってクールダウン、ストレッチ。
何かこういう、積み重ねによる着実な力の伸びというものを、通翻課程の学生にも感じさせてあげられないと。英語力の伸びという「結果」を感じさせないことには、その先のさらに深い、僕が本当にやりたい「学び」を十分に味わわせてあげられないだろう。
見てろよ、これでも君らぐらいの時には受験指導で食ってたんだ。