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新しい水

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

5月30日の「題名のない音楽会」は、津軽三味線の上妻宏光さんと尺八の藤原道山さんがゲストだった。

大学時代に筝曲部に所属して尺八を吹いていたので、こういうゲストが来る回はいつもアンビバレントな気分になる。箏やら三弦やら尺八やらが聴けるのは嬉しいのだが、そういう馴染みの楽器が、「宴会芸」的なことをやらされるのが、個人的には抵抗がある。同じように、フルートとハープで「春の海」を演奏されるというのも、なんだかなあ、と思ってしまう。

邦楽は邦楽で、何がいけないのだろう?そのままで受け容れず、西洋音楽的な味付けをしないと受け付けられないというのは、何か釈然としないのだ。まあ、番組が番組なだけに、西洋音楽がホームグラウンドという位置づけになるのは仕方ないが。

上妻さんの「スペイン」という曲が演奏される。打楽器としての三味線の特徴が良く出た曲だ。でも、これ三味線で演奏する必然性はあるのだろうか?ギターなどで良いんじゃないのか?と思ってしまう。

続いて藤原道山さんが編曲したピアソラの「リベルタンゴ」。尺八の一音一音違う音色を生かした演奏だった。ムラ息、スリなどの技法も実に上手い。一音一音がとてもきれいな方だなあと思う。

山本邦山さんに指示していたそうだ。なるほどなあ。そういわれてみれば、先輩が吹いていた「対動」だったっけか、あれもこんな風なノリであった。

その後、それぞれの楽器の説明に入る。尺八に関しては、「単純な楽器だけに、『自然の音』が出せるということだった。音程の組み合わせよりも、一音一音の音色で表現する。「陰」と「陽」。

東京大学のロバート・キャンベル先生が「音」のことをtoneとか「ティンバー」とか言っていたのだが、「は?材木?」と思って後で調べてみた。timber=timbreとある。何だろうと思ってさらに調べると、

〈フランス語〉〔音響{おんきょう}・音声学{おんせいがく}の〕音質{おんしつ}、音色{おんしょく}◆大きさと高さの同じ音があるときに、それらを区別する音の要素。
〈フランス語〉《音楽》ティンバー、タンブル、音色{おんしょく/ねいろ}◆ある楽器や歌声に固有の音。◆【同】tone color

ということなのだそうだ(出典 英辞郎)。正直、内容に関しては、まだ良く分からないが。

その後、藤原さんが「鶴の巣篭」を吹くが、いや、実に上手い。こうなると、「リベルタンゴ」は、やはり「余技」という感じだなあ。

そんなことを思いつつ、森毅さんのエッセイ集「世紀末のながめ」を読む。その中の「祭りの伝統」という一文を読んでいて、「うーん、そうかもなあ」と思った。以下抜粋する。

***

伝統というのは、文化の流れのことだが、流れは昔の形を残さねばならぬと同時に、新しい水が入って変わっていかねばならぬ。これは生命の流れと同じで、遺伝子がコピーされ続けるだけでは生命は劣化し、新しい遺伝子と結びつくことで生命は続く。すっかりサンバかなにかにしてしまったのでは、これは別の流れとして新しい祭りを作ることだ。古い流れの中で新しいものをどんどん組み込んでいけるというのが、伝統の力だろう。

たぶん若者が新しい趣向を考えて、町の古老が眉をひそめる。そのバランスによって、古い流れと新奇なはなやぎが生まれるのだろう。そうした葛藤がないと、伝統は文化財的に固定してしまう。それは、祭りが鑑賞の対象になるということだ。
(中略)
でもそのことは、祭りを、見る側と見せる側に分けかねない。見せる側の地元も、毎年のことでいくらか白けている。見る側は、祭りに参加しているというより、ブラウン管で見なれた景色を眺めて安心するだけだったりする。実際には、夏の宵の臭いが立ち込めるところが、なによりブラウン管と違うところだが。それでもぼくにしてから、それをノスタルジーの風物にしてしまっているのは、伝統の衰えのような気がしてしかたがない。

***

邦楽に関しては、いつのまにやら「町の古老」と化していたようだ。自分は大して上手くもないくせにね。もっと懐深く楽しみたいものだなと思う。

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END