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転んだら立ち上がって、また歩く。それしかない。

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

輪島功一氏の「炎の世界チャンピオン」という本を、数時間で読了した。先日「にあんちゃん」を読んだ時と同じ感じがする。つまり、そこには「貧しさ」という名の豊かさがあるということだ。

赤貧洗うがごとき生活に耐え、明日を見据えて必死に生きる。物理的には何もないかもしれないが、一日一日を生き抜いた!という実感とともに倒れるように眠りに落ちる日々には、今の僕にはない「張り」があるに違いないと思う。

必死に生きる。努力を積み重ねる。

僕はそういったことに、しみじみ弱い。そのような行動をしてこなかっただけに、「自力で人生を切り開く」という能力が、決定的に育っていない。だからこそ輪島氏の語りや、「にあんちゃん」に描かれている生活に、心が揺さぶられるのだろう。

何不自由なく育てられ、周りの引立てでここまで来られたわけだが、ありがたい反面、どこか借り物の人生を歩んでいるという感覚がぬぐえない。今の自分の立場も、自分の本性を知っている分「なぜ僕がこんなところに?」という違和感がぬぐえない。

通訳者としても、教員としても、「なぜ自分が今いる場所に立っていて、必死に努力を積み重ねている人が自分の立ち位置までたどり着けないのか」と感じてしまう。何が違うのだろう。結局、僕が幸運に恵まれていた、というだけのことなのだろうか。

僕のことを買って下さり、引き上げて下さり、人生の扉をどんどん開けて下さる方々には、感謝を感じる一方で、なんだか騙しているような、後ろ暗さを感じてしまう。

結局怠惰な本性をごまかそうとしているだけか。後ろ暗さを感じるならば、自分でも努力をするしかないのだ。しかも、「やるべき努力」を。ボクサーが、試合後のインタビューに備えてアナウンスセミナーにせっせと通っても仕方がないのと同じで、なんだか頓珍漢な方面ばかりにエネルギーを注いでいる気がする。それでも人並の、いや十分人並み以上の幸せな生活ができてしまうので、本気で生き方を修正しようとしない。

時間だけが過ぎていく。本来「惑わなくなる」とされる年齢をとうに過ぎて、日々「……?」と首をかしげながら生きているのは、やはりいけないことだと感じるのだ。「豊かさ」という貧しさに取りつかれているのだろう。

さて、授業だ。学生たちにやらせたいことはいろいろある。どんなにボロボロでも、まるで舞台に立つ役者のように、教壇に立つと身も心もシャンとするのだから現金なものだが、「教師を演じている」という気持ちはどこかに残る。

そして「なんだ、金かと思ったら、金メッキじゃないか!」と教え子にいつか見破られるのをどこかで恐れている。恐れつつも、なんだかまったく心が言うことを聞かないのが苛立たしい。英字新聞を読んでいても、読むスピードのあまりの遅さにイラついて放り出してしまう。

いや、でも、最後は英語しかないんだ。かじりつかないと。力がないなら、泥臭くパワーアップに励むしかない。何度も挫折してきた英語学習だが、いい加減、力不足は力不足なりに、自分のやり方を確立しないと。負け戦の戦い方を学ぶと言ってもいい。それは戦いそのものから逃げることとは違うのだ。

やる気がわくのを待っていても、そんなものはわかない。行動することから、やる気はわいてくるのだ。うん、それは分かっているんだよな、頭では。

体で考える。体で理解する。知識を行動に結びつけ、技と化す。なんだ、いつも学生に向かって偉そうに言っていることじゃないか。済まんなあ、言行不一致の先生で。

うん、とにかくこうしていても始まらない。とっとと研究室に行って、今日の授業に使う教材を思い切り音読してやろう。そして教室に行って、満面の笑みを浮かべて学生を迎えて言うのだ。

「よ〜し、今日も頑張ろう!」

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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