2人のマエストロ
21日の日曜日に、毎年妻との恒例行事となっているマリス・ヤンソンスのコンサートに行った。相変わらず華麗な振りで、2人で聴き入って帰宅した。それに引き続き、ゲルギエフが24日に地元大宮までやってくるとのことで、聴きに行く。元々クラシックはあまり詳しくないが、それでも名前ぐらいは聞いたことがある指揮者だ。どんな人だろう。
登場したのは、想像したより小柄な男性だった。ヤンソンスがどちらかと言うと繊細で女性的な感じを漂わせているのに対し、ゲルギエフは男性的で、良い意味で土臭いと言ったらいいのだろうか、何か麦藁帽をかぶって首にタオルを巻き、トラクターに乗っているのが似合いそうな感じがする。ギョロリとした目の持つ光が、尋常ではない。
フェミニンなヤンソンスと比較して、マッチョというか、肉体美系というか、マスキュリンな感じはするのだが、粗暴ではない。朴訥とした優しさにあふれた演奏だったと思った。
ひじから先を使い、指揮棒がしなって見えるような、「舞い」のような優美な指揮をするヤンソンスと違い、指揮棒を使わない。そして、手首から先の部分の表情が実に豊かだ。
演奏が始まる。3曲演奏されたが、どれも非常に良かった。特にマーラーの1番は妻のお古のCDをよく研究室で流していることもあって、聞いていていろいろな発見があって、実に楽しかった。
出だしの部分のPPは、CDだとよく聞き取れないのだが、生演奏だと朝もや漂う森の中に迷い込んだような気分になる。
あまり詳しくないので、具体的にどこがどうとは言えないのだが、いつも聞いているショルティの演奏とは当然ながらまったく異なるのはよくわかる。「いろいろ仕掛けてくるな」という感じ。
何というのだろう、CDで聞きなれている曲なのに、演奏を聴いているといろんな音やメロディーが新たに聞こえてくるのだ。考古学者が丹念に刷毛で土をぬぐっていくと、遺跡の輪郭が現れるように。数学で、図形に1本補助線を引くと、さっぱりわからなかった問題が、カーテンをサッと開いたように理解できるように。
それぞれの楽器に対してちゃんと「見せ場」を用意するような気配りを見せるヤンソンスに対して、ゲルギエフは曲の中でのそれぞれの楽器の役割を心得ていて、「今回は君は裏方ね。頑張って。期待してる」というような感じがした。演奏を見ていて初めて気づいたのだが、マーラーの作品自体も、楽器をワンポイント的に使っているので、むしろゲルギエフ的な指揮のほうがあっているのかもしれない、などと思う。
アンコールで演奏したブラームスのハンガリー舞曲にしてもマーラーの1番第2楽章にしても、今回でヤンソンスとゲルギエフ2人の巨匠の演奏を聴いたわけだが、「全力疾走のゲルギエフ」「観衆ににこやかに手を振りながらゆったり走るヤンソンス」という感じで好対照だった。
そして、どちらの演奏も捨てがたい。いや、僕のような素人がそういうのも僭越なのだが。通訳や翻訳と同じで、「ああ、こういう解釈もありだなあ」と思うのだ。
よほど逸脱しない限り、どのような解釈も許される部分がある。しかしそれが許されるのは、深い思考の産物である時に限られるな、とも思う。そして、それを見せてくれる巨匠がいて、決してホイホイ出せる金額ではないとはいえ、決して払えなくはない金額でそういった人々の思考と解釈の成果を見せていただけるというのは、実に豊かなことだ。
話変わって、2曲目のソリストの諏訪内晶子さんの演奏も良かった。去年サントリーホールで聞いたヤンソンスのコンサートでは、ベートーベンのバイオリンコンチェルトを五嶋みどりさんのソロで聞いたが、あの時は五嶋さんの抜身の日本刀のような迫力のある演奏に、すっかり圧倒されてしまった。
演奏した曲の違いもあったのだろうが、鬼気迫る勢いに、客席にいながらにして射すくめられたような気分になった。
それに対して諏訪内さんの演奏は(もちろん演奏した曲の違いが大きいのだろうが)、低音を豊かに響かせながらゆったりと音の波が押し寄せてきて、気が付いたらその音にからめとられているような、それでいてからめ捕られているのが心地よいような、そんな感じがした。
これもマエストロ2人と同じく、どちらも「あり」なんだなあ。大事なのは、高い次元で突き抜けること。そんなことを思いながら妻と家路についた。