特派員としての自分、一人の人間としての自分
BBCのポッドキャストにFrom Our Own Correspondentという番組がある。世界各国に散らばるBBCの特派員が送ってきたリポートの総集編のようなもので、毎週1回配信されるお気に入り番組だ。
その中でバングラデシュ(だったかな)の洪水を取材に行った女性特派員のリポートが印象的で、出勤のため自宅から最寄駅に向かう途中で聞いていて、電車に乗り込んでからiPodを止めて富士山を眺めながら考え込んでしまった。
被災者である若い女性が、衰弱しきった新生児を抱えている。新生児にはすでにハエがたくさんたかっていて、「どこに医者がいるか分からない」と語る母親と話した特派員は仮設病院まで行って、医師に診察を依頼して去った。
数日後、「やはり助からなかっただろうか」と思いながら同じ場所を通り過ぎると、何とあの赤ちゃんが授乳していた。名前も付けてもらったという。
嬉しいと思う反面、手放しでは喜べなかったそうだ。というのも、「特派員は悲劇を『報道』するものであって、悲劇に『介入』するものではない。あの子を診察したことで、あの子の命は救えたかもしれないが、その分、仮設病院で診察を続けていたら救えたかもしれない別の人の命が、犠牲になっているのかもしれない」と感じたからだという。
そうは言っても、あの2人に対して何もしてやらなければ、それはそれで後悔したであろうことは間違いない。
「知る」ということは、いろいろなものを背負い込むことなのだな、と思う。僕だって、ポッドキャストを聞かなければ、ラッシュにもまれつつ考え込んだりしなくて済んだはずだ。
でも、そういうことがあるのならば、そこから目をそらしたくはない。背負い込むことも、それを考えることも、さらにそれを伝えていくことも、通訳者であり教師である僕の務めであると思っている。