「永遠の0」 読書メモ
祖父だと思っていた人物が、実は祖母の再婚相手であり、自分の実の祖父は特攻隊員として太平洋戦争で戦死していた。それを知ったジャーナリストの姉と、司法浪人で26歳の弟が、生前の祖父を知る人物を一人一人尋ねて行く。
特攻隊員たちはどのような思いで特攻を行なって行ったのか、そしてそれが現在の日本人にどんな意味を持つのかなど、重層的なテーマを扱った作品だった。
人物も非常によく描写されている。その中で、一人だけ例外があった。「特攻隊員はテロリストである」と断じる新聞記者、高山だ。他の人物と比べると、なぜか高山だけが描き方が薄っぺらな気がするのだが、それは現代の人間、しかも特攻についてちょっと「リベラル」な考えをする人間のステレオタイプ、「ひっかき回し役」として描かれているからかもしれない。
この高山は、僕だ、と思った。いや、「特攻隊員はテロリストである」と考えているところがではない。分かったようなことを言い、その実、本質は何も分かっていないところが、だ。
高山の意見は、聞いていて違和感を感じつつも簡単には論破できない。理論武装と言っても良いが、タテマエとしてそれなりに練り上げられている以上、説得力もある。
しかし、それは自己正当化を繰り返して練り上げたものであり、その根本において不誠実なものを抱えた考えなのだ。自分の考えを「模範解答」として、それ以外の考えをあくまで認めない姿勢にそれがあらわれている。
大学時代、先輩と酒を飲んでいるときに「お前、頭の良いバカになるんじゃねえぞ」と言われて、心臓を貫かれたような衝撃を受けたことがあるが、高山の人物描写を見ながらその衝撃をありありと思いだした。
祖父の実像を探っていく2人の様子は、「これこそが解なし学習だ」と言えるようなやり方だった。人間、早いところ「これはこうです」という「答え」が欲しい。
しかし、祖父を知る人も、それぞれが祖父の一面、自分の立ち位置から見た姿しか知り得ず、何人もインタビューを重ねて行くうちに、平面図が集まって立体像へと変化して行く。
戦争体験者の視点は、「正しい」かもしれないが、全体像をつかみきっているとは言えない。兵は兵の視点で、下士官は下士官の視点で、予備士官は予備士官の、士官は士官の視点でしか語りえないのだ。さらにそこに「現代」を代表する2人の視点が重なることで、同時代に生きた人々の水平的な視点の広がりに加えて、時間軸という垂直方面の厚みも加わって行く。
戦争を知らない世代も、この本を読めば、祖父を追う姉と弟の思考をたどりつつ戦争についてかなり深いことが学べるようになっている本だった。
祖父であった人物は、「お国のために、喜んで命をささげる」と言うのが当たり前だった時代に、「妻のために、何としても生き残りたい」という。そして、「臆病者」とののしられながらも、今から見れば当たり前とも思える、しかしあの状況下では維持し続けるのがきわめて困難だった「人間的な感覚」を保持したまま、戦い続けて行くのだ。
その背景には、その考えを周りに納得させるだけの圧倒的な操縦技術があった。雑音を黙らせるだけの実力があったのだ。
意思や信念を貫くためには、いろいろな意味での「強さ」が必要なのだなと思う。
人は、自分の文脈でしか本を読めない。この文章を読んで、「あの本を読んで、反応するのはそこかよ」という反応も、あって当然だろう。結局自分の文脈でしか受信ができないからこそ、自分自身のアンテナの感度を最大限に研ぎ澄ましていたいと思う。
いずれにせよ、偶然ではあるが8月15日が近付く中でこの本が読めて、実に良かった。