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「『その時』のために」

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

 常日頃、学生に対して、日本語の表現を学ぶために、あらゆる日本語に触れるようにと言っています。中でも特に韻文は、コンパクトで効果的な訳文を作る際に、非常に参考になります。それは、韻文は言葉の感覚がすぐれた人たちが、一語一語のエネルギーを高めた言葉を、一点を撃ち抜くようにして使った結果生まれるものだからです。

ただ、この場合の「韻文」は、主に「和歌、短歌、俳句」などを指していました。深い意味はなく、個人的に「詩」という形態の韻文が苦手だったからです。散文のようにありとあらゆる方向に言葉を振りかけるでもなく(こちらはこちらで好きな表現形式なのです)、短歌や俳句のように急所を一点で貫くような感じでもない。なんだか中途半端な気がして、その良さがあまり理解できなかったのです。

ただ、「詩」のなかでも「散文詩」的なものは比較的好きでした。先日地元の図書館に行った時に吉野弘さんの全作品を収めた詩集を借りてきて、少しずつ読み進めています。「I was born」「夕焼け」など、教科書で見かけた詩も大人になって読み返してみると新たに見えてくるものがあり、非常に良いですね。「奈々子に」「雪の日に」「幻・その恩恵」「犬とサラリーマン」「風が吹くと」「素直な疑問符」なども、声に出してみると実に深い味わいがあります。

ただ、たくさんある詩の中で、琴線に触れると言いますか、「良さが(感覚的に)分かる」というものは、数えるほどしかありません。せっかく吉野さんが心を込めて選んだ言葉たちでも、受け取る私の方のアンテナが未熟だと、まさに「馬耳東風」とばかりに、言葉は頭の中を吹き抜けて行ってしまいます。それが悔しくてなりません。

良い日本語に出会ったら、それを逃さないように、「その時」のために普段から感覚を磨いておきたいものだと思います。

同じようなことが、武道の稽古でもありました。大学の時には柔道を、最近は空手を習っていたのですが、先生が何かおっしゃっても、その内容を理解するには私の方の力が足りず、うまくメッセージをくみ取れないことが日常茶飯事でした。その結果、呆然と天井を仰いだり、風呂に入りながら痣の数を数えたりする羽目になります。

英語学習においても、事情はまったく同じでした。同僚が「これは面白い」というコラムの面白さが分からない。映画を見ていても、周りの人と同じように感動できない。ひどい場合には、そもそも読み取れず、聞き取れない。それはひとえに、英語を感じ取る力が不足しているからです(もちろん、それ以外にもあれこれ不足しているということだと思いますが)。

不足しているものは、補っていくしかありません。だからこそ、日本語を読んで考え、打ち込みを行ない、正拳突きを繰り返し、英語を聴いて話して読んで書いて、ということを繰り返していくのだと思います。

そうやって、今までは感じ取れなかったことを感じ取りたいのです。今までは見えなかった丘の向こうの景色を見てみたいのです。

不器用な人間は不器用なりに、愚直に、「その時」のために備えて努力を積み重ねて行きたいと思っています。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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