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ヴァレリー・ゲルギエフのコンサートに行く

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

某月某日。

妻に連れられ、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮のコンサートに行く。この方が振るのを聴くのは2度目だ。

妻は元々、マリス・ヤンソンスというラトヴィア出身の指揮者の大ファンなのだが、確か2年ほど前に「曲目が良いから」と大宮ソニックシティ—にゲルギエフを聴きに行って以来、ゲルギエフにも注目しているご様子。

僕はクラシックは詳しいというほどではなく、かと言って嫌いなわけでもなく、まあごく普通の日本人なわけだが、ロンドンで妻と付き合い始めたころから、散歩に連れ出される大型犬のごとく一緒にコンサートに通うようになった。

何事も比較対象があると理解が深まるが、ヤンソンスさんとゲルギエフさんも、イメージ的にかなり差があって面白い。

個人的な印象だが、ヤンソンスはとにかく「華麗」。指揮棒の振り方一つでも華がある。指揮そのものが見ていて心地いいというか、実にカッコいいのだ。指揮棒の動きがきれいで、バラか何かの一輪挿しで指揮しているようなイメージがある。さらに、本当に楽しそうに、ニコニコと指揮をしていて、オケともいい関係を築いているんだろうなあと思わせる。インタビューなどを読んでも、人間的にとてもいい人なのだな、と思う。僕も大ファンである。

それに対して、ゲルギエフは、何というか「実直」なイメージがある。ステージで着ているものも、何となく地味で土臭い。指揮棒は、少なくとも僕は、まだ使っているところを見たことはない。両手をヒラヒラさせながら指揮するのだが、手に表情があるのだ。

全くのイメージと勝手な想像なのだが、お酒を飲むとしたら、ヤンソンスはシャンパングラスを片手にシャンデリアの下で飲んでいるようなイメージがある。それに対して、ゲルギエフさんは裸電球のぶら下がる飲み屋さんで、焼酎をドンブリで飲んでそうな気がする。頭にタオルとか巻いて。

乗っている車も、ヤンソンスがジャギュアとかだったら、ゲルギエフは農作業用のトラクターが似合いそうな……。いや、完全におふざけなので、ファンの方には怒らないでいただきたいのだが……。

一緒に食事するにしても、ヤンソンスはやはり高級レストランになるのかなあと思うが、ゲルギエフさんは炬燵で寄せ鍋とかつつきながら熱燗を飲んでくれそうだ。

そんなアホなことを考えながら、仕事の関係で先にサントリーホールに到着。妻と落ち合い、コンサートが始まる。詳細は割愛。

今回の演奏は、管楽器と弦楽器のバランスが絶妙だったと思う。ヤンソンス指揮のコンセルトヘボウの弦楽器の調べも素晴らしいが、管楽器とのバランスという点では、今日の演奏が上を行っていたように思った。

今日、個人的に聴きたいなと思っていたのは、ラフマニノフのピアノ協奏曲3番。バース大学に留学しているときに、街の映画館でクラスメートと観た「シャイン」という映画に出てきた曲だ。

確か、夕食を食べてから、みんなでワイワイと出かけたのではなかったか。

天才的ピアニストの話で、映画を見終わり、パブで一杯ひっかけてから山の上にある大学(大学内の寮に住んでいた)に戻るバスの中でも、終始僕らは寡黙だった。

「何かを極めるには、時として心を壊すまで努力しなくてはならないのか……」

という思いが、たぶん全員の胸に去来していたに違いない。考えてみたら、映画を見たのは、ちょうど今ぐらいの時期だったような気がする。

暗くなる一方のイギリスの冬。先の見えない留学。通訳・翻訳に挑むということの絶望的なまでの果てしなさ。そんなものと、みんな必死に戦っていたと思う。

窓外のオレンジ色の街灯に照らされた坂道と、バスの物憂げなエンジン音とともに、あの出だしのフレーズを思い出す。

以上、尻切れトンボだが、忘れないうちに当日考えたことを書き留めておいた(といっても、もう2週間ほど前のことなので、詳細は忘れてしまっているのだが)。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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