通訳「理論」の堂々巡り
「通訳理論」についてあれこれ調べてはいるのですが、どうもまともな論文が書けずにいます。というのも、現在の通訳研究の方向性と、自分が興味がある通訳研究の方向性がずれているので、どうもお手本になるような先行研究が上手く見つけられず・・・というのは、ハイ、言い分けです。あああ、何とか今年は一本ぐらい書きたい。いや、書かねばシャレになりません。とほほ。
さて、そもそも通訳理論に興味をもったのは、通訳者の評価をどう行なうかということに興味を持ったからです。つまり、通訳者として稼動しているうちに、どういう通訳が「良い」通訳として評価してもらえるのだろうか(言い換えれば、お客様の役に立つサービスになるのだろうか)と考え始めたのでした。
通訳の良し悪しを判断する基準はあるのか、あるとすれば、恒常的に一定の基準を達成するための再現性のある公式のようなもの、つまり「理論」はあるのだろうか、そう考えたのでした。
現在、ある翻訳者と翻訳研究者の往復書簡をおさめた本を読んでいるのですが、この本に出てくる翻訳者も、私と同じ事を考えていたようですね。翻訳者は、こう主張します。
「何か、『これを押さえておけば、翻訳の品質向上に役立つ』みたいな理論はないんですか?あるとすれば、即、仕事に役立つんですが」
それに対して、研究者はこう言います。
「いえ、現在の研究の主眼は、翻訳のプロセスそのものに移っています。すなわち、原文がどのようなプロセスを経て訳文になるのか、その過程をを研究するのです」
実は私が考えていたこともこの翻訳者と同じで、この翻訳者が(恐らく)感じたであろう落胆を、私も通訳理論の研究を始めてみて感じました。イギリスから帰国する直前に書いた日記を見返してみると、「公式」的な通訳理論にはこの時点である程度、見切りをつけています。
考えてみたら、「この通りにすれば、一定の効果が必ず上がる言語コミュニケーションが生み出せる」という理論みたいなものが本当に存在すると仮定すれば、「この理論に則って書けば、芥川賞が取れる」というような「公式」だって存在することになります。しかし、(直感的な判断で、なんら根拠は示せませんが)そんな理論はあり得ないと思うんですよ。あるとしたら、「文学って何?人間の心って何?」と考え込んでしまいます。
それでまあ、もともと「通訳に理論はないと思います」なんてことを、通訳学会の理事の先生に(まだ学会員になる前に)言ってしまっていた私なんですが、数年間の通訳経験に基づく自前の「通訳の定義」を一応胸に秘めて、日本に帰って参りました。
帰国早々、通訳学会の分科会で発表をすることになりまして、その際、イギリスでの放送通訳の経験を語った後、偉そうに自説を開陳したんですね。
曰く、「通訳(「翻訳」と置き換えても良い)行為とは、『オリジナルのメッセージを正確にくみとり、それを別の言語で、効果的に再表現すること』である」と。
少々説明します。まず、人間が言葉を発する(または文章を書く)ということは、何か伝えたいことがあるということです。これを「メッセージ」と定義します。そして、メッセージの発生源、通訳の場合ならスピーカー、翻訳の場合なら原文を「オリジナル」と定義します。
通訳・翻訳という行為にまず必要となるのは、「オリジナル」の「メッセージ」を正確にとらえることだというわけなのですが、これは単に言語情報をとらえるだけではありません。
禅に「不立文字」という言葉があり、これは「本当に大事なことは言葉に出来ない」というような意味だそうです。しかし通訳者・翻訳者としては、言葉にならない非言語情報、通訳ならば表情や口調からもメッセージをくみとること、翻訳ならば微妙なニュアンスや「行間」を読むという行為などが必要になってくるわけです。
そうやってくみとったメッセージを、単に正確に変換する、「置き換える」のならば、やっていることは自動翻訳ソフトと大差ありません。例えばGood morningのGoodとmorningを、どう「正確に日本語に置き換え」ても、出てくるのは「よい」と「朝」のはずです(いや、いまどきそんな稚拙な変換をする翻訳ソフトはありませんが、例えばの話です)。
ここで必要となるのは、原発話、もしくは原文の表面的な形式にこだわらず、自分が「オリジナル」になったと仮定して、もう一度表現し直す、すなわち「再表現する」ということです。
Good morningと聞いて、まず、「ああ、挨拶をしているんだな。状況は朝、もしくは午前中なんだな」とメッセージをくみとったら、「日本語で、朝、もしくは午前中に挨拶をする時には・・・」と考えてみます。そうすれば、「おはよう」という言葉が当然出てくるわけです。
さらに、「効果的に」すなわち、聞き手に伝わりやすく、場合によっては「ございます」をさらに追加するなどの微調整を行なって訳出する・・・と、そんなことが私の考えて発表した「通訳の定義」でした。
「どうですか?結構良いこと言うでしょ、ボク?」と聴衆を見回してみたのですが、リアクションが薄いこと薄いこと。
当時の通訳学会の会長である近藤先生がおっしゃいました。「あ、それはセレスコビッチの『意味の理論』ですね。それに自力でたどり着いたのは偉い。大したものです」
近藤先生は優しくそう言ってニコニコして下さいましたが、「意味の理論」って(それすら知らなかった私は慌てて調べましたが)、なんと数十年前に発表されているんです。
私がやらかしたことはまさにreinventing the wheelという奴で、数学者の前で「よろしいですか?1と1を足すと、2になるのです。えっへん」と胸を張ったに等しいことだったのでした。あああ・・・。
それでまあ、「通訳理論」について、それからも自分なりにいろいろ調べてみたのですが、「公式」型の理論にはなかなかお目にかかれませんね。
通訳学会で伺ったところ、理論研究で分析の対象になるのは、大きく分けて、
1 原発話と訳出の表現の対応(つまり、翻訳研究的なもの)
2 通訳のプロセスをたどる(通訳者の頭の中で何が起こったか)
3 聴衆の受容(聞き手はどのように受け止めたか)
と分けられ、2が主流になっているとのことです。そうなると分かってきたのは、私が研究したいのは、実は3なんですね。
ただ、これがなかなか難しい。通訳としての分かりやすさなど、「評価」にズバリ関わってくるわけです。ただ、原語が分からないで分析
てしまうと、いわゆる「勧進帳を読まれた」場合に、その読みっぷりが上手いというだけで「素晴らしい」と誤った判断を下してしまう恐れがあります。
となると、やはり分析者自身も通訳者であり、「自分ならこう訳す」と考えられることが望ましいわけですが・・・いや〜、これは非常に神経を使う問題ですね。同僚のボーナスを査定するようなものです。しかも「すみません、査定させていただきたいんですが」と聞いてみて「イヤです」と言われればそれまでです。
それでもボーナスの査定なら、例えば「○○万円分の仕事を取ってきた」「○○万円の利益を会社にもたらした」という具体的な評価基準があるから、まだマシです。
通訳の評価を下すとなれば、まず「良い通訳とはこうあるべきだ」というチェックポイント、つまりテスティング・ポイントを定めないといけません。しかし、通訳のシチュエーションは千変万化しますし、例えインプットは同じでも、聴衆によってアウトプットを変化させる必要があることもあります。そうなると、どのポイントをクリアしていれば「良い通訳」と言えるのかを設定するのが非常に難しいのです。
しかも、その基準を分析対象となる通訳者と共有できていればいいのですが、その方が全く違う基準に基づいて通訳を行なっているとしたら、有益な評価はしにくいと思うのです。例えば、私は「サッカー」のルールで評価しようと思っているのに、分析対象の方が「これは『ラグビー』だ」と思ってプレイしているとすれば、まともな評価は出来ませんよね。
そもそも、私自身が自分の通訳に対して「自分ではこうだと思うけれど、果たして本当にこれでいいのか?」と自問自答している状態では「通訳とはかくあるべし」という基準も確立できません。つまりゴールが設定できないのです。
そして、ゴールが設定できない以上は、「この理論に従えば、聴衆の受容が改善される(=通訳の評価が高まる)」という理論は打ち立てられない、ということになってしまい・・・かくして話は冒頭に戻る、というわけなのです。はあ。
「論文を書かないとシャレにならない」と言いつつ、「訳の公式」型の理論についてはすっかり白旗状態で、当面は、通訳のプロセスを分析しつつ、英語教師としてそれを英語教育に生かせる道を探るような日々が続く予定です。
ま、「通訳の評価」が絡む分野の研究というのは、下手に踏み込むと自分の首も絞めかねない、地雷原のようなフィールドではありますが、もう少し修行してから、自作の探知機を手に、ぜひとも踏査したいものだと考えているところです。