あやしうこそものぐるほしけれ
通訳教育についてちょっとした発表をしなくてはいけなくて、あれこれ考えているのですが、あれほど好きなテーマだったにも関わらず、「何か、俺に言えることって何もないんじゃないか?もうすでにやりつくされているしなあ」という後ろ向きの気分です。まあ、冷静になってみれば論文を書こうとするときと一緒で、自分を自分以上に見せようと背伸びしているのが原因だとは分かってはいるのですけれども。
そんなわけで、何か刺激になるものをインプットでもしようかなあと思いつつも、何だかギアが入らず、入っても半クラッチのままと言ったようなどうもスッキリしない状態が続いています。
そんな気分でいたある日、息子が学校でジブリの「耳をすませば」のフィルム絵本か何かを読んであれこれ話していたので、元の作品(厳密に言うとさらにマンガが原作なのだそうですが)を見せてやろうと、DVDを借りてきました。長かったので2日にわけて見せましたが、楽しんでいたようです。
これは人生の目標(バイオリン職人)を明確にもって、それに向かって邁進する中学3年生の天沢聖司と、自分が何をしたいのか、何が出来るのかを掴みきっていない同じく中学3年生の月島雫の2人が、最初は反発しながら惹かれあっていく姿を軸に描かれた話です。悩む雫ですが、聖司は自分にはないものを雫が持っていることが分かっていて、ちゃんと彼女を尊敬している。そんな2人が寄り添い、支えあいながら未来に向かって踏み出していくシーンで映画は終わります。そのラストシーンは、ちょっと何と言うか、少女マンガ的なむずがゆさがあるのですが(調べてみたら、原作が少女マンガでした。納得)、まあ、それも大人になってから見直すとそれなりに味わいがあったりして。2人を見守る周囲の大人たちの暖かい視線の描かれ方も、個人的には好きな作品ですね。
あれを初めて見たのは、大学からようやく這い出した翌年、ちょうど小さな塾に入って英語科の主任となり、直後に指導方針を巡って塾長と怒鳴りあいをやらかした頃でした。やさぐれた気分のまま、話の種にでもというぐらいの気分で、当時話題になっていた本作の切符を買ったのです。映画を見た大部分の人と同じく、これからどうやって生きていこうかと思っていた私は、ヒロインの月島雫の視点から作品世界を見ていました。
世の中には2種類の人がいるように思います。それは天沢聖司のように自分の夢を明確に持ち、しかも(ここが重要ですが)それなりの才能にも恵まれ、さらに夢に向かって自発的に努力を重ねるタイプの人と、雫のように「自分には何が出来るか」と悩み、自分なりの目標を立ててコツコツと生きていく人です。前者にあこがれる人は私を含め多いのですが、最近思うのは、前者のパターンはかなり特異なケースであるということです。まあ、一種の天才と表現してもいいかもしれません。
大成功をおさめた経営者などが書くような「成功本」の内容を読んでいても共通点があるのですが、まずは思い入れが桁外れに強い。そしていったん定めた目標に、桁外れなエネルギーを注ぎ込むことが出来る。その点だけでも普通の人にはなかなかマネが出来ないのですが、本人たちはそのことすら気付いていないのです。
空手の達人に「蹴り足が上がらないのですが」と質問したところ「そんなものは君、毎日蹴上げを千回もやってれば、簡単に出来るよ」と答えられたとか、営業の達人にコツを尋ねたら、「お客様情報の百人や二百人、真剣にやってたら自然と頭に入っちゃわない?」と言われたとか。以前紹介した「痛くない注射針」を開発した岡野工業の岡野雅行さんの職人としての取り組みを見ていても、同じようなことを感じます。ものすごいことを、さも当然のように行なっているのです。
だから凡人である自分がそういった理想を追求しなくて良い、と言いたいのではありません。しかし、やはり住む世界が違うのは事実だと思うのです。十数年前の私は、そこまでは達観できず、とは言っても雫のように自分の人生を正面から見据える誠実さもひたむきさもなく、なんで自分は聖司のようにカッコよく生きられないんだろうと、悔しいやら落胆するやら、実に複雑な気分で映画館を出ました。映画そのものは、面白かったんですけれどね。
あれから1年後に、イギリスに留学することになって、それがきっかけで通訳の道に本格的に踏み出すことになるのですから、人生分からないものです。十数年ぶりに見た本作でしたが、十数年前と同じような焦燥感を覚えました。人間、変わらないものですねえ。人生において次の一歩を踏み出すべき時なのかな、などと思ってみたりもします。それが明確に見えているような、見えていないような。はー、やはりいつまでたっても根っこの部分はそのままです。妻曰く、「あなたは外堀が埋められないと動き出さない人」。はい、至極同感でございます。
話は変わりますが、先日のB-17の話、かなり分量のある英文の記述を見つけて、その内容がよかったのでちょっとずつ翻訳を進めてみているのですが、これも今週はあまり進まず。でも、何とか翻訳して、学生さんに読ませてあげたいと思っています。
また、ディベートのジャッジをした時に「話し合い」ということに興味を持って、図書館から「多数決とジャンケン」(加藤良平著 津川シンスケ絵 講談社)という子供向けの本を借りてきました。これは分かりやすくてよいです。
ついつい民主主義=多数決と思ってしまいがちなのですが、多数決をとるまえに、十分話し合いを行なうことが大切なのだということを、この本は思い起こさせてくれます。少数意見の尊重というけれど、それは具体的にどのように行なうものなのか、さらに自分の意に沿わない結果となった場合の身の振り方はどうあるべきかなど、そこらへんの政治家にも読ませたいような内容です。後半は選挙のからくりなどの解説が多くなるのですが、今の選挙制度を考える上でもいろいろと参考になりました。
それにしても、民主主義はいびつな形で日本に根付いたなと思います。十分な話し合いと意見調整をせずに、強行採決というパターンが、学級会に始まり国会に至るまで横行しているのではないでしょうか。多数決の土台となるものが骨抜きにされている以上、大した結果は望めません。自分の意見を相手に分かってもらおうとコミュニケーションをとるという、一番大事なことがおざなりになっているように思います。そこが変わらない限り、そのお手伝いをする立場の通訳者の受難も終わらないでしょうねえ。どんな受難があるかは、新崎隆
先生が週間STで連載していらっしゃるエッセイ、「通訳は真剣勝負」をお読みになるとよく分かるとおもいます。ジャパンタイムズのメールマガジンでも読めるので、そちらがお手軽かもしれません。
この本を借りるついでに借りたのが、「働くことがイヤな人のための本」(中島義道著)。中島さんは、「ウイーン愛憎」を読んで以来、つかず離れずというか、それほどのめりこむわけではないものの、常に視界の隅に存在していらっしゃいます。この本は題名が若干フェイント気味と言いますか、「働かなくってもいいよ」という内容ではなく「働かなきゃ。だけど何で働かなきゃならないんだ!」という命題と正面から取っ組み合いをやっています。実に面白いです。私から見ると、「そんなところにこだわらんでも・・・」というところにトコトンこだわっている姿から、自分では見えてこなかったことが見えてきて「なるほどなあ」と思ったり。
いろいろな受けとり方が出来るのですが、ここまで深く考えられる方というのも、最初のほうで言った「住む世界が違う」タイプの方なのだろうなあと思います。共感できるかというと、若干ついていけない部分もあって、黙々と仕事に取り組む職人の手さばきに、半ば唖然としながら見入っているような気分になりました。
42ページに「だめ連」という組織が紹介されています。「職業、財産、地位、家族……等々社会的に評価されるもの、つまりそれによって我々を縛り付けるものを何も持たないことを信条に生きている」方々のグループだそうですが、一読して「?」と思いました。自己矛盾してますよね。社会的に縛られることを拒否するならば、そのこと自体を社会に対してアピールする必要もないのではないでしょうか。もちろん中島さんが43ページで「こうした非生産的な生き方がそれなりの場を持っている、つまり頭から排斥されない現代日本は健全だと思う」とおっしゃっている通りだとは思うのですが。
興味を持ったので調べてみたのですが、中島さんも予言している通り、現在は活動休止状態のようです。ウェブページもあるのですが、想像を絶する「だめ」っぷりでした。この「だめ連」について書いたブログで、面白いものを見つけましたのでリンクしておきます。
http://sofusha.moe-nifty.com/blog/2008/09/post-69b6.html
こちらのブログでも書かれている通り、開き直り過ぎるのはまずいと思います。節度を持って、ということでしょうか。まあ、当たり前の話ですけれども。
日曜日には、近くの美術館に一家で行ってきたのですが、偶然アートフェスタというお祭りをやっていて、美術館の周りにある公園で陶芸家の方が屋台を出していたり、風船屋さんがいたり、似顔絵書きの方がいたり、ダンスやパントマイムを披露している人がいたり、時間が合わずに聞けませんでしたが、噴水前ではジャズの演奏もあったようです。
息子と娘が「お願い!」というので似顔絵を描いていただいている間に、パントマイムを遠目に眺めつつ思ったのですが、こういう「芸術」には、それほど近しい生活を送って来ませんでした。生活そのもので一杯一杯で、本を読むのが実生活からの唯一の逃避かつ実生活への抵抗という生活が、帰国以来何年か続いていたのです。授業をして、家に帰って数時間寝てNHKの早朝勤務に行って、その後また授業というような生活を繰り返していると、仕事を回すにはどうするかと考えるのが精一杯で、のんびりとパントマイムやら絵やらを見たり公園を散歩したりというような気分にはなれませんでした。物理的にそんな時間がとれなかったのもありますし。
確かに、何かを生産するという観点からは、ほぼ対極にあるような世界だとは思います。でも、久しぶりにそんな世界に触れて、「ああ、こういうことも必要なんだな」と思いました。美術館のレストランで食事を取って、妻や子供たちと話し、水を注いだグラスがレンズになって、白いテーブルクロスに窓外の木々や青空が縮小されてクッキリ映っているのをみんなで「きれいだねーっ!」と言い合う。確かに何かを生み出すということやサービスを提供するような「仕事」とは違いますが、本来「人生=仕事」ではないわけであって、むしろそういう「何も生み出さない時間」こそが人生の中で大事なことなのかもしれません。
芸術家は、そういうことそのものを仕事にしているわけですから、普通の人とは比較にならないほど濃密で激しい生活を送る一方、実生活での生活能力となると、なかなか厳しいものがある、と。だから芸術家にはパトロンが必要になるわけなんでしょうね。中島先生のような哲学者も、ある意味で高等遊民と言うか、まあ芸術家の一種みたいなものでしょうから、やはり大学という生活の保障をしてくれる存在が必要なのかもしれません。
しかし普通の人は、霞を食べて生きていくわけには行きませんから、口に糊するために働くわけです。なかなか理想だけを追求するのは難しいものですね。
そんなことを思いつつ、通訳学校の代講に行ってきました。初級クラスと中級クラスを教えたのですが、全体的に「学習者」としての姿勢から抜け切っていない生徒さんの姿が目に付き、惜しいなあと思いました。通訳学校に通って(そして落ちこぼれるという、いつものパターンを抜かりなく踏襲して)いた頃の私と比べて、英語力も高いし予復習も熱心にやっていらっしゃいます。訳出させてもそれなりに上手い。だけれども何か「もう一声!」という気がするんですね。
それは何かと考えていたのですが「評価される立場」と「誰かのお役に立とうとする立場」の姿勢の違いかなと思います。「何とかこのメッセージを伝えたい。伝えてお役に立ちたい」という姿勢が、もっと全面に出ると良いなと思いました。皆さんの訳出を聞いていると、内容的には上手いのですが(それは強調しておきます)、訳出を始めるまでに「あちゃー、そこがあたっちゃったか。どうかなあ、上手に出来るかな?もうちょっと復習しておいたら良かったかなあ。別の部分なら上手に出来るんですけど」、さらに訳出を終えた後「……と思うんですけど、どうですか?間違ってますか?それとも上手く出来ましたか?」という「評価待ち」の表情が顔を覗かせるんです。実際に口に出す人も結構いました。
それは「学習の場」ですし、「生徒」ですから仕方ないとも言えるのですが、やはりプロを目指す以上は、指名されてから通訳が終わって講師のコメントが始まるまで、そういう反応は極力抑えてみると良いのではないでしょうか。
変な例えですが、飛び降り自殺を
思いとどまらせようと説得するおまわりさんは、「こういう説得をしたら、後で部長に注意されるかなあ」などと思ってはいないと思うんです。「テスト」ではないんですから。通訳という行為の本質にも、そういう部分が関係してくるように思います。
さてと、プロを目指す人が集まる養成所はそれで良いとして、問題は冒頭にちょろりと書いた「通訳教育」です。こちらは大学での通訳教育ですから、今書いたようなレベルを求めるわけではありません。むしろ、そこまでたどり着くためのトレーニングをいかに行なうか、です。
ザッと考えただけでも、
・英語力そのものの強化
・与えられた情報の中から、重要なことを見分けてくみ取る能力の強化
・自分の考えを、分かりやすく伝える能力の強化
・背景知識の強化
といったことがあがります。
英語力の強化としては、リスニングやスピーキングなどの質量の充実でしょうね。特にコミュニケーション重視の英語教育で育ってきている世代は、緻密な聞き取りや正確な発話が苦手ですから、大量に聞かせるだけではなくディクテーションなどもやらせて、弱点の把握とその解消をしなければならないでしょう。スピーキングに関しても、単語を並べてジェスチャーと表情で補うような状態から早く卒業させるためには、そのような「楽しい」会話の実践を継続させつつも、パターンプラクティスのようなメカニカルなトレーニングを課して、文法的に正確な文章を安定して話せるようにしなければなりません。
メッセージをくみ取る能力は、最初は日本語を聞かせて(もしくは日本語の番組を見せて)その内容を日本語で要約することが効果的でしょう。知識の強化と知らなかった世界を知るという意味では、NHKの「視点論点」などがちょうど良いのではないでしょうか。英語力がついて来るのを待って、英語から日本語への要約も行なわせたいものです。
デリバリーの強化には、日英両方でのプレゼンテーションの練習と、その姿を録画して分析させるのが効くかなと思っています。それを次第にディベートにつなげて行くと。
背景知識の強化は、日英両方の読書で。英語のほうはどちらかというと英語力の強化にウエイトを置いて、Graded Readersの多読。日本語の方は知識の習得にウエイトを置いて、主に新書を濫読させたい。そうですねえ、4年間で最低百冊ぐらいは。分野は問わず。それをプレゼンテーションにつなげて、ゆくゆくはそのプレゼンテーションも通訳するようにすれば、様々な能力の融合が図れるでしょう。
1〜2年生のうちに基礎的な英語力を強化して、「何とか言葉を『置き換えられる』」程度の初歩的通訳が出来るように。3〜4年生では強化された背景知識も動員して、様々な分野で、「オリジナルのメッセージを正確にくみ取り、それを別の言語で、効果的に再表現できる」ようにしていきたいものですね。
やはりOJTも入れてみたい。学内の留学生たちのちょっとしたお手伝い的なものでも良いし、地元の国際交流センターと連携してやってみるのもなお良し。大学が招いたゲストの通訳をするというのも、いつかはやってみたいですね。
……などというところまでは考えているんですが、どうも「聞いた人の度肝を抜きたい!」的ないやらしい色気があって、「あれも盛り込むかな?こっちはどうだ?」なんて感じで、なかなかまとまりません。
ダメですね。もっと手短にまとめられないと。このブログもそうですが、主張を手短にまとめられないと言うことは、思考がそれだけ浅いということです。だからダラダラと書き連ねることになる。う〜む。
などと書きつつふと時計に目をやると、ブログの締め切りもとうに過ぎてるじゃありませんか。またやっちゃいました。学生さんにはあれほど「締め切り厳守!」と言っているのに。
あー、どうもなあ、う〜ん。いやいや、頑張れ自分。働け自分。