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直訳と意訳の狭間で

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

よく「直訳」とか「意訳」とかいうことが言われますが、通訳者・翻訳者としては、ナンセンスな分類だなと感じています。プロダクトとしては、「意訳」と言われるものだけが完成品なのであって、いわゆる「直訳」というものは、(私見ではありますが)多くの場合、原語がある程度分かる人間が、その理解の確認として必要とするものなのではないでしょうか。

一応定義めいたものを言うと、「意訳」にもいくつかレベルがある、ということを考えてはいます。どの言葉がどの言葉にかかっているかなど、英文構造の理解を示すための「英文解釈」の訳文がありますが、それを「直訳」として、その対立概念としての「意訳」もあります。そして、もっと高度な情報操作をも含めた「意訳」もあると思います。

山岡洋一さんも「意訳」「直訳」について「翻訳通信」で扱われていますが、この点に関しては仕事をしていると何かと意識することが多いです。NHKでの放送通訳の仕事(2種類)、ドキュメンタリー吹き替え翻訳の仕事の、合計3つのケースを見て行きたいと思います。

NHKでの通訳の仕事には、いろいろな種類があるのですが、私がやっているのは大きく分けて2つ。1つは時差通訳と呼ばれるもので、もう1つが字幕作成などのお手伝いです。たまに同時通訳のお声もかかるのですが、恥ずかしながら同通を非常に苦手にしているのと、訳出原語である日本語の質にこだわりたいのとで、逃げ回ってばかりいます。NHKで同時通訳をしたのは、2003年のイラク戦争のときが最後ですから、お恥ずかしい限りです(それ以外では逃げ切れずに何度かやっていますけれども)。

さて、時差通訳とは、あらかじめニュース番組の映像ファイルをもらい、準備時間をかけて日本語の原稿を準備します(要は、翻訳してしまうわけです)。本番の放送では、英語を聞きながら、画面にあわせて原稿を読み上げていくのですが、この「画面にあわせて」というのが結構曲者です。例えば選挙の報道などで画面にグラフが出ている場合など、通訳者は共和党の得票率について語っているのに、画面では民主党のグラフが、という風になってはいけないわけですね。

そのためにはどうするか。対応方法としては2通りあって、早口で全部を詰め込むという方法がひとつ、もうひとつは情報の取捨選択を行なうというものです。何を取って何を残すのかという判断にはなかなか手間がかかることもあり、実は前者のやり方の方が楽は楽です。ちょっとぐらい画面とずれてしまっても気にしないということでもありますからね。しかし私を含め、NHKの通訳者はそういうやり方を選択していないと思います。

それはなぜか。根本的なこととして、「一体何のための放送通訳か」ということを考える必要があるでしょう。放送通訳に限らず、通訳は「サービス」です。つまり、「いかにお役に立つか」を常に考えている必要が出てくるわけです。放送通訳の場合、聞き手は専門家ではなく一般の方々です。しかも普通、テレビの前に正座してニュースを拝聴する人はいませんから、恐らくは何か(出勤の支度など)をしながら視聴する方がほとんどでしょう。そういう方に情報を提供するための放送通訳なわけですから、極めて聴き易い通訳をしない限り、情報を伝えることは出来なくなってしまいます。そして、情報が伝えられないならば、放送通訳をつける意味はありません。厳しい言い方をすれば、通訳をしたところで、お役に立てないならば通訳者の自己満足ということになってしまいかねません。そうであるならば、情報を「食べやすく」処理してあげる必要がある、つまり「意訳」していく必要があるということになります。

外国のニュースを通訳する場合、さらに難しい要素として、日本人には馴染みがない事象に関しては、原語では何も語っていなくても説明を加える必要が出てくるという点が挙げられます。例えば、「リアリティー・ショー」と言われて、ピンと来るでしょうか?これなどは典型的な例なのですが、やはり原文で「リアリティーショー」としか言っていなくても、「複数の参加者が共同生活し、そのありのままの姿を放送する、『リアリティー・ショー』と呼ばれるタイプの番組」などと説明を加える必要が出てきます。そうなれば、当然その分そのほかの部分の通訳内容を削る必要が生じるわけなのです。

このように、かなり「意訳」度が高くなるのが時差通訳なのですが、それと対極だという印象を受けるのが、ニュースの字幕作成のお手伝いをするシフトです。朝のニュース番組「おはよう日本」などで、イギリスのブラウン首相が話している画面に字幕が出る、というようなことがあると思いますが、その作成をサポートします。特派員が送ってきたビデオを見て、その訳文を書き出してプロデューサーに見せるのですが、その際に「直訳で構わないので、意味を教えてください」と言われることが多いのです。

プロデューサーもある程度(人によってはかなり高度な)英語力があるので、自分でも字幕を付けられないこともないのですが、まずは英文の構造を正確に把握して、それから日本語として自然な訳を付けるということのようです。最初のうちは、そのあたりの機微が分からず、「いや、この訳文、日本語としては自然だと思うんですが、この英語のどの部分がこの訳語になるんですか?」と尋ねられることもよくありました。時差通訳とは真逆のことをやる必要があるため、勝手が違ったのです。

ただ、この「直訳で良いんで」というのもなかなか難しくて、わざわざ英文解釈的に訳したのに、そこを指摘されて注意されることもあったりして、毎回違う担当者の求めるものをその場その場で見分けて「直訳レベル」を調整しなければなりません。要は「たたき台」としての半完成品を作れと言われているわけですが、普段完成品を作ることを目的にしているために、ただでさえ戸惑いがあるのに加え、「どのぐらいの『半完成品』か」という問題も加わるという難しさがある、ということです。クライアントが求めるものが、通訳者・翻訳者としての「正解」ですから、議論しても仕方ないことなのですが、正直言って、たまに疲れることもあります。

ここまでは、恐らく皆さんのイメージする「意訳」「直訳」の範囲内のことかと思います。しかし、映像翻訳の場合は、さらに事情が複雑になるのです。

以前、海兵隊の元隊員が新兵器をリポートするというドキュメンタリーの翻訳をしたことがありました。

翻訳会社側から入念に申し渡されたのは、「好戦的に訳さないで欲しい」「なるべく厭戦的に」

いうことでした。例えば「こいつをぶち込めば、敵はイチコロだぜ!」という口調で話している台詞でも、「この兵器を使用すると、攻撃された側は1人も生き残ることが出来なくなってしまうのです」というような具合に訳して欲しい、というわけです。恐らくは戦争を肯定するようなトーンを出したくないという製作者側の判断だったと思うのですが、かなり訳しづらかったのを覚えています。これはこれで、クライアントから要求された「意訳」だった、ということになるわけですね。

後日談になりますが、結局大きなクレームを受けることになってしまいました。航空ものや軍事ものは得意なので、良く考えずに引き受けた私の姿勢にも問題があったのでしょう。エクセルで注釈番号まで付けたクレームを頂戴したのは、あれが初めてでした。一翻訳者に対して、よくそこまで対応して下さったなあと思うと同時に、翻訳者としての姿勢を問い直す良い機会となりました。

少々脱線しますが、翻訳についてもうひとつ印象深いのはBBCに勤務しているときのことです。先輩方は経験と実力のある通訳者がずらりとそろっていて、駆け出しの通訳者としては実に勉強になったのですが、ある日先輩の訳したドキュメンタリーの翻訳チェックをしていて驚いたことがあります(ちなみに、ニュース番組の放送だけではなく、ドキュメンタリー番組を翻訳し、通訳者が「声優」となって吹き替え放送を行なうのも業務のうちでした)。チェックを進めていると、「ダチョウはとても速い足を持っています」という訳文に行き当たったのです。長年外国に住んでいると、母語である日本語も、少しずつチューニングがずれてくるようですね。特におかしいと思われなかったようで、その原稿には同じような訳が散見されたのですが、日本から来たばかりの私には、かなり強い違和感があったのを覚えています。

何にしても、私は基本的には「意訳」こそがプロダクトと考えてはいるものの、その「意訳」レベルにも様々あり、さらに「たたき台」としての「直訳」が求められることもあります。その対応の幅の広さこそ、自動通訳機や自動翻訳機に追随できない部分なのかなと思っています。ただ、それも「今のところは」という但し書き付きでしょうね。昔は「日本語ワープロは実現不可能だ」と言われていたそうですが、機械の進歩は著しく、ワープロソフトなどは今やPCのバンドルソフトの一つに過ぎませんから。

「意訳」と「直訳」。その狭間で、通訳者も翻訳者も、日々静かな格闘を展開しているのです・・・というと、ちょっと大げさでしょうか。でも、テレビを見るときや映画を見るときに、そんなことをちょっと思い起こしていただければ幸いです。

Written by

記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

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