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本を読みたい、読まねばならぬ

いぬ

通訳・翻訳者リレーブログ

午前中一杯かかって、セレスコヴィッチの「会議通訳者」を読了。いや、大きな宿題をようやく片付けた気分だ。通訳の研究をやっててこれを読んでいないのは、漱石の研究者が「吾輩は猫である」を読んでないようなものだからなあ。実は、他にも未読の超重要課題図書が書棚に目白押しなのだが、一冊ずつ片付けるしかあるまい。それでも専門書に手を出し始めた自分はちょっと褒めてやらねばと思う。

印象としては、通訳の本質について(専門書としては)分かりやすく書いてあるものの、やはり古さは否めないなという感じだった。通訳者の頭の中で何が起きているかを知りたい人、また僕のように自分の通訳スタイルを確認したい(または訳出のプロセスが間違っていないという裏づけが欲しい)通訳者には、有益なのではないかと思う。

ただ、全体的に散文的な記述で、メッセージが今ひとつ散漫な印象になっているような気がする。もちろん僕自身の理解力のなさからそういう印象を受けたという可能性も否定しない。また、記述が若干エッセイ的というか、データの裏づけがあまりなく、鋭い着眼点と豊かな経験のみ(もちろんそれも得がたいものではあるが)に頼って書かれているので、学術論文的にはどう評価されるのだろうという部分が気になることではある。

また、多分セレスコビッチ氏の言っていることは通訳者ならば多かれ少なかれ考えていることであって、それを通訳者ではない人に見せられる、具体的に文章にまとめたということに、この本の第一の存在意義があるのではないかと思う。

バース大学での留学時代に原型を考え、BBC日本語部時代に完成した、僕の通訳(と翻訳)の定義は、「オリジナルのメッセージを正確にくみ取り、それを別の言語で、効果的に再表現する」というものだ。これも、今になってみれば、セレスコビッチの「意味の理論」が数十年前に到達していたことの焼き直しに過ぎない。

この定義を2003年の日本通訳学会(現・日本通訳翻訳学会)の分科会で語った際には、当時会長をしていらした近藤正臣先生が発表後にいらっしゃって、「セレスコビッチと同じお考えですね」と柔和に微笑まれていたのが思い出される。最も当時の僕は「せれすこびっち」という耳慣れない人名が誰なのかすら知らないという、お恥ずかしい状況だったのだが。何にしても、高名らしいその方と同じ結論に達したということに、安堵感のようなものを覚えたものだ。

何にしても、「通訳(者)とは何か」を語りつくしたわけだから、その次は「通訳者をどう養成するのか」という、通訳者教育についてどう語っているのかが気になる。多分調べればそれに関する本があるだろうから、探してみようと思う。

以下に印象に残った点を列挙する。

・知的交流の活発化と国際機関の創設により、通訳は急速に専門的な職業となったのである。(4ページ)
→その先はどうあるべきか?通訳の存在が普通になるべきなのか、リンガフランカが登場するべきなのか。今現在では、不況の影響もあり、「脱通訳化」が著しい。不況で真っ先に削減されるのは、通訳にかかるコストなのだ。

・(会議通訳とは)語句の翻訳を口頭でするのではなく、意味を汲み取って聞き手に明示するのであり、評釈・明示化であるのだ。(9ページ)

・通訳者は言語のあり方を研究する言語学者ではなく、職務遂行上使用する言語を自在に直感的に知る言語専門家なのである。(9ページ)
→この「直感的に」という記述がひっかかる。通訳者としては、実感として良く分かるが、通訳者ではない人に、どう説明すればよいのか。「直感=ひらめき」ととらえるとすると、「経験知から」ということだろうか。

・これから「何を」言うかを話し始める前に分かっているとはいっても、結局はおおまかにしか分かっていないことを忘れないでおこう。私たちは単語や表現を前もって選んでいるのではなく、単語や表現が浮かぶとともに思考が固まってくるのであり、口にした表現を聞くことにより、それが思考自体にフィードバックして思考をさらに明確にし展開させるのだ。そのため思考が形に現れていない状態の時よりも話しながらの方が、私たちは物事をよく考えることができるのである。
 だから自然な発話行為とは、何よりもまず思考行為なのである。(17ページ)
→だからこそ、通訳者はその思考行為に寄り添い、話し手の「意味」を汲み取ってそれを上手に伝える必要がある、と。

・1つの動作を言葉で伝えなければならないとしたら、手足の運動を描写するよりも、動作の意味を説明する方が良いのは明白だ。ビーチでしきりに手を振っているひとを見かけたら、その人の外見や一つ一つの動作を描写するよりも、「ポールが僕たちを呼んでいる」と言う方がずっと簡単で普通である。(20ページ)

・ほとんどの場合、話し手のメッセージを伝えるために、通訳者はまず自分自身の理解のために、状況に照らしてメッセージを明示化しなければならず、言葉の裏にある含みを補ったり、説明なしでも聞き手は理解できるだろうと話し手が省略した部分の再構築もしなければならない。その上でメッセージを別な言語で理解しやすい形で表現するのである。(25ページ)
→CNNの時差通訳をしていると、背景説明をしなければと感じることが非常に多い。もちろんアメリカ国内ニュースを訳しているからという事情もあるのだろうが、同じ国内向けニュースでも、BBCと比べると、そう感じることが格段に多いように感じる。アメリカの意識が内向き(国内向き)になっていることを示唆するのだろうか。

・談話のペースでは、2,3分を超える話の語句を記憶できる人はなく、記憶できるのは意味だけなのだ。意味が分からなければ、ほとんど何も残らないし、「理解」しなかった通訳者は、意味のあることを言えないのである。(29ページ)

・通訳者の多くは記憶力が悪く、電話番号を思いだせない、人の名前が覚えられないということもあるし、観察力に乏しく、暗記も苦手である。(36ページ)
→えーと、セレスコビッチ先生、確かに僕に関してはおっしゃるとおりですけど、それをこういう風に断言してしまうのは、どうなんでしょう?

・意味を思いだせるのはメッセージの全内容を捉えるために超スピードの分析が行なわれたからである。映画を見た人がストーリーを思いだせるのは、理解出来たからである。(37ページ)
→つまり、「ターゲット・ランゲージ(訳出言語)の力さえ十分あれば、カギは『理解が十分に出来たかどうか」ということなのか?

・逐

通訳では聴取された情報をそのままノートするのではなく(速記は使われない)、意味分析の結果をノートする。還元すれば、通訳者は聞いたことを書くのではなく、これから言うことをノートするのである。答弁しようとするものが、自分の論旨のキーワードを一言メモするのと同じである。(40ページ)
→至言ですね。「通訳者は聞いたことを書くのではなく、これから言うことをノートするのである」。授業で使わせていただきます。

・固有名詞・表題・数字など、分析不能なものがある。これらを忘れたくなかったら、逐一文字通り記憶する必要があるが、それは内容分析という必須の作業から注意をそらせることになるので危険である。だからこれらは暗記しようとはせずに紙に書くのである。これらが通訳ノートのかなりの部分を占めることになる。(41ページ)

・聴取内容に対して賛成・反対の立場をとることにより、主張をより深く理解して、それを思い出し、訳出することができるのである。通訳者の分析や、賛成・反対の理由が訳出に紛れ込むことはない。分析をすればするほど、何が言われたのかを意識すればするほど、自分の考えと発言者の考えを明確に区別できるからである。(52ページ)
→これは、実感として良く分かる。通訳に限らず、賛成とも反対とも思えないようなことは、深く理解していないことが多い。無関心、つまり、十分に関心を持っていない状態なのであって、当然意味を深く理解することもない。

・(通訳者は)常に知識(情報を創出する専門家に必要となる知識)は不足するのである。反面、不可欠となるのが、与えられる情報を理解することである。従って通訳者は仕事の経験を重ねることにより、ある特定の分野の専門家になるのではなく、むしろ分析・解釈の能力を培っていくのである。(60ページ)

・発言者と同じ知識を必要とするのではなく、同等の知的能力が必要となる。(中略)知識のレベルではなく知性のレベルで発言者と同等であることが求められるのである。(61ページ)

・皮膚科の国際会議では、皮膚に関して一般向けの解説書(仏語ならQue sais-je(文庫)など)に書かれている程度の知識は十分消化していることが不可欠である。(61-62ページ)
→日本においては、「通訳を目指すなら、新書を山盛り読んどけ!」って感じだろうか。全くその通りだと思う。ちなみに、以前クセジュ文庫の翻訳を古本屋で良く見かけた。

・通訳訓練でスタート時点から必要な言語レベルは、「彼のX語は完璧だ」という表現が安易に使われ過ぎていなかったら、「完璧」と形容したいレベルである。(73ページ)
→謙遜ではなく悲しみを込めて言うが、僕の英語力は「完璧」からは程遠い。教える立場の人間からしてこうだ。日本における通訳教育は、日本独自の問題を抱えていると思う。語学教育と通訳教育を平行することに対してセレスコビッチは批判的だが、日本においてこの前提で通訳教育を始めるとしたら、多分教育機関は1箇所でもおつりが来るのではないか。

・フランス語の「15日」は、「2週間」の意味で使われる(81ページ 要約)

・訳語探しには3つのレベルがあることが分かる。語源的翻訳(語句の第一義的な語義を訳す)、約束翻訳(ある特定の分野において対応後として認定されている訳語を使う)と文脈的翻訳(ある文脈においてのみ有効な等価表現を創出する訳)である。(84ページ)
→一つ目が「辞書の訳語そのまま」、二つ目が「専門用語・業界用語的な訳」、つまりBrowerはそのままカタカナで「ブラウザ」と訳すなどというものか。「熟語」的な訳も、これに含めて良いかもしれない。たとえばtaken for grantedを「当然のことと思う」などと訳すのも、これに入るのではないか。三つ目は、漱石がPity is akin to love.を「可哀想だたァ惚れたってことよ」と江戸弁に「翻訳」したような訳し方であろう。個人的には、こういう訳出が通訳・翻訳の一番大変なところでもあるし、通訳者・翻訳者の腕の見せ所だとも思う。

・話し手が使った語句は忘れてもメッセージはもらさず理解した通訳者が「自分の」考えを表現しようとする時、同じ状況で同一のことを表現する方法が何百もあるのではないから「どんな言い方でもよい」ことにはならない。通訳者が言うことは自ずとスピーチの意味に沿うだけではなく、話しての個性・スタイルにも合ったものとなる。(95ページ)
→無軌道な「翻案」をして良いわけではない、ということ。肝に銘じねば。

・通訳者が自己の目標とするのは、メッセージをあくまで忠実に伝えること、すなわちスピーチを直接聞いているものが理解することと同じことを通訳の聞き手に理解させることである。この目標を達成するためにはメッセージを漏らすところなく理解しただけでは足りない。いかに優れた解釈力を持とうと、表現力が不足し、聞き手を捉えることが出来なければ失格である。(95ページ)
→料理そのものだけでなく、盛り付けも大事。味わってもらってこその料理である。

・意味に忠実であろうと努める通訳者が使う表現は、原発言の対応語句をそれだけ取り出して比較してみると意外な感じを持たせるが、考えてみるとそれが発言の論理にかなったものであり、明確であろうとして意図的に選択したものだと分かる、という特徴がある。(99ページ)
→例えば、Good morning.という言葉を訳す際、Goodに対応する語句はこれ、morningに対応する語句はこれ、という訳出ではまともな訳にならない。

・通訳者は、作家の書いた戯曲に演技をつける役者と同様に媒介者であり、役者と同様に、自らの存在を消し去るのではなく、確実な存在感を示すことによって、媒介の責任を果たすものである。(107ページ)
→僕は教室でこれを「コミュニケーションに積極的に介入するタイプの通訳者」という言い方をしている。日本では「通訳は黒子たれ」という格言のようなものが広がっているのだが、個人的には積極的にコミュニケーションの潤滑油となる通訳者が、これから必要になるのではと考えている。

・有名な俳優のガリックは、声に抑揚をつけてアルファベットを暗唱するだけで観客を笑わせたり涙させることが出来ると豪語したそうだ。そこまではいかないにしても、雄弁なスピーチを通訳する際に、通訳者は話し方に特別の注意を払うと言えるであろう。(中略)イギリスとスコットランドの対立がほのめかされても、それが話しの本題に関係がないなら、門外漢のフランス人の聴衆に長々と説明して退屈させるよりも、省略した方がよいと判断することもある。
 こうしたス

ーチの通訳は、明示したり説得したりすることではなく、感動させることが主眼となるから、通訳者は雄弁をもって発言者に忠誠を尽くすのである。(113-114ページ)
→悲しいニュースなのに、無機質に用意した訳文を読み上げるのではいけない、ということ。放送通訳者は声優ではないから、「演技」する必要はないが、「そのニュースが伝えようとしているもの」=メッセージをきちんと汲み取って伝えねばならない。

・(訳者あとがきより)厳格なプロ通訳者たちはマイクのスイッチを切ると書いてあるのを読んで、日本の読者は目を疑うのではないかと思う。実際、パリでは「通訳をやめろ」という指示が先輩通訳者から来ることを、私は何回か経験している。私が初めて同時通訳をした会議では、著名な社会学の教授が猛烈なスピードでフランス語の原稿を読み上げ、新米の私は前の晩に必死で原稿を勉強していたので、なんとか一段落を一文にまとめようと四苦八苦していたが、突然同僚にマイクのスイッチを切られた。ただあっけにとられて周囲を見回すと、隣のブースも皆通訳をやめている。会場では座長に諭されて、教授はしぶしぶペースを落として続きを読んだ。(中略)プロがその能力を発揮できないような状況で仕事を強いられることは受け入れないというプライドがあった。(152ページ)
→いや全く、読んでいて思わず「えっ!」と声を挙げてしまった。日本では絶対にあり得ない。そんなことをすれば、「あの通訳は能力不足だ」と言われてしまうのがオチだ。以前Japan Timesのメルマガで、ベテラン通訳者の新崎隆子先生が義憤にかられた文章をつづっていらしたが、それが日本の現状なのだ。「通訳を使うための(一般人の)トレーニング」というものが、ぜひ広がって欲しいと思う。

何にしても、こうやって本を読んで、あれこれ考える。それが今の僕にとっての「給料分の働き」なのかなと思う。

まあ、今までも文庫やら新書やらは読み漁ってきた。読書そのものは嫌いではない。というか大好きだ。でも、今までは、アカデミックなものや、名高い名作文学などが、どうも読めなかった。端から読む気が起きなかったり、途中であまりの分からなさに読む気が失せたり。

思えば、学生たちの読書に関わる問題を、次元の差こそあれ、僕も抱えているのではないだろうか。多分彼らの場合は僕が楽しんで読めるような本に対しても、僕がアカデミックな本を読んでいるときに感じるように、「目が活字の上を滑って行く」と感じるのかもしれない。

ならば、学生たちと同じ目線で、同じ問題にコツコツと取り組んでみよう。半歩先に進んで「おいみんな、もうちょっと先には、こういうものがあるよ。今に見えてくるから、頑張ろう!」と言えるようでありたい。

砂漠にて
渇する人の水を飲む
ごとき思いで
本を読みたし

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記事を書いた人

いぬ

幼少期より日本で過ごす。大学留年、通訳学校進級失敗の後、イギリス逃亡。彼の地で仕事と伴侶を得て帰国。現在、放送通訳者兼映像翻訳者兼大学講師として稼動中。いろんな意味で規格外の2児の父。

END