善意で敷き詰められた道
某日
大学に出勤。途中日経とデイリー・ヨミウリ。続いて松本道弘先生の「同時通訳」を読む。うーん、どうなのだろう、これは。西山千先生の話が中心になるというので楽しみにしていたのだが、西山先生の話がずっと出てくることは出てくるものの、個人的に期待していたような描写ではない。というか、西山先生の言動に対する、松本先生自身の内面描写が続く。
到着すると、アマゾンに頼んでいた本が数十冊届いていた。古本なので一冊一冊梱包を解かないといけない。地球に厳しいシステムだなー。弁当を使いつつ、届いた本をチラチラ眺める。むっふっふ。面白そうだ。厳密に言えば古本を買うのは出版業界のためにならないのだが、無限に研究費があるわけではない以上、ある程度は仕方ない。1円から本が買えるんだものなあ。送料がその350倍ほどかかるけれど。
13時半から1時間ちょっと、教務部の方と留学制度についての打ち合わせ。いろいろ明らかになってきた。意外だったのは、留学すると日本の大学が要求する単位取得においては不利になるということ。平たく言うと、単位をまとめてゴソッととるには、留学しないほうが良いのだ。
アメリカにしてもオーストラリアにしても、半期で取得できる単位数に上限があるらしい。アメリカの場合は、せいぜい15単位ほど。しかも、海外の大学は授業時間以外の学びを重視するから(というより、授業時間外の勉強がなければ、とても追いつけない)、日本に比べると、1単位あたりの授業時間数が少ない。それを帰国後に日本の大学の単位として換算する際には、単に授業時間で比べるのだそうだ。
結果として、アメリカの大学では3単位出たのに、日本の大学で認定されるのは2単位だけということもあるのだ。そうなると、僕としては「できるだけ長く留学しておいで」と言いたいけれど、そのとおりにすれば、「単位を一気に取得できる期間を短縮する」ことにもなってしまう。
しかも、日本の大学のほうも、いつの間にやら「履修単位数の上限」という理解に苦しむシステムを導入している。要は1年間に50単位も60単位も取れないようになっているのだ。もっとも、成績優秀だと、その上限がある程度緩和されるらしい。逆だろう。取りこぼした単位が多い劣等生ほど、いっぱい履修しないとならないのになあ、と2回の留年経験を持つ僕などは思ってしまう。
そうかあ。しかし、制度からそうなってるんじゃあ、「半年じゃダメ。ぜひ1年!」とは言いづらいなあ。「4年で卒業するんじゃダメ。ぜひ5年かけて!」って言うようなもんだ。ま、個人的には数年間の回り道など、人生において何ほどのこともないと思うし、僕のように怠けて留年するわけじゃないんだから、じっくり学んだら良いと思うんだけれどなあ。
やっぱり東京外語大みたいに、大学院と連携して5年間のコースなんかを作るべきなんだろうか。いやいや、基礎力が不足しているから、やはり学部は4年かけてみっちり鍛えてほしいしなあ。
だけど、半年じゃなあ。ようやく外国暮らしに慣れたところで帰国する羽目になるから、みすみすカルチャーショックと逆カルチャーショックをセットで味わうようなものなんだけどなあ。
なんだか、どんどんこうやって外堀を埋められて、学びの機会がますます削られているような気がしてならない。それにしても、学費を支払うのが大変ならば、教育ローンを使うとか、奨学金を狙うとか、いろいろ手はあると思うのだけれどなあ。どうしても「4年で卒業、即就職」でないとダメだという考えらしい。親がそうだから、学生もそう考える。そして「お客さん」である学生と親がそう考えるから、大学もそういうニーズにこたえようと動くわけだ。
教務課のほうでも就職部と連携して、留学から帰ってくる学生向けに、特別就活セミナーをやってくれるよう取り計らう予定らしい。日本にいる学生と比べて、留学で数ヶ月出遅れるからだなのだそうだ。「ありがとうございます」とお礼も言ったし、その気持ちには嘘はないんだけれど、やっぱり違和感はあるな。
会議室を出て、研究室まで歩きながら、先ほどのミーティングを反芻していた。
「留学」で「出遅れる」?「留学」したから「差をつけることができる」んじゃなくて?
就職活動数か月分の価値すらない留学って、いったい何なんだろう。その程度の価値しかないという考えなら、そりゃあ就職活動と留学を天秤にかけることになっちゃうだろうな。だけど、それって本来、二者択一にすることがおかしいんじゃないの?
「表面的なお化粧と、内面的な自分磨きと、どっちをとる?」っていうようなもんだ。両方必要に決まっているし、どちらかといえば後者が大切なのは、言わずもがな。でも結局はみんなが前者を選ぶから、見てくれだけはゴテゴテ厚化粧した、その化粧をとったら金太郎飴みたいに個性のない、しかもティッシュペーパーみたいにひ弱な人間を量産しちゃってるんじゃないだろうか。個人的には、そういうことに間接的ながら手を貸してしまっているのが非常にイヤだ。
だいたい、就職って、そこまでお膳立てしてやることなの?これから先の人生を切り開く、いい練習の機会だと思うんだけれど。大学入学に失敗している「浪人」を社会的に許容することはできているわけなんだから、「就職浪人」も許容するようなシステムになれば良いなあ。
すぐ「ニート」とか呼ばないで、スロースターターも認めてやる社会であってほしい。要領がちょっと悪いだけなんだから。それに、要領よく内定を勝ち取る力と、社会を支える人間としての能力は(かなり重なる部分はあるにしても)同一ではないと思う。違うことをやる能力なのだから、それも当然の話だけれど。
ちゃっちゃと内定を決めて、入社してみたら「こんなはずじゃなかった。自分探しの旅に出ます」って言ってすぐにやめちゃうよりも、内定がなかなか決まらないプロセスを通して自分を見つめなおして、方向性を見極め、入社後も着々と成長して行くのとでは、絶対後者の方が良いと思うのだ。
研究室のドアを閉めながら、憤然と思う。
すりゃー良いじゃないの、挫折。どうせやるなら若いうちだよ。「まだ何者でもない」っていうのは、「失うものがない」ってことでもあるんだ。社会に相手にしてもらえず地団太踏んだり、「今に見てろよ」と思いつつ安きほうに流されて「あー俺ってダメなやつなのね」と思ったりしてるうちに、「いや、こんだけは絶対譲れん。やってやるぞコンチキショー!」と思うものが
えてきたりするんだから。
周りで見守る人は、精神的にも、そして場合によっては金銭的にも大変かもしれないけれど、人間なんて程度の差こそあれ、そうやって周りに迷惑をかけつつも暖かく見守られながら、だんだん大人になっていくんじゃないの?そして、そういう存在を受け入れてあげられるのが、本当に「豊かな」社会であり、国であり、生活であると思うんだけれど。
そして、そうやって育まれた人が、悪戦苦闘する次の世代を「ったく、しょうがねえなあ。でも、俺も昔はそんなもんだったからな」と、温かく見守る。そうやってプラスの連鎖を続けて行くことから、さらに良い明日につながっているんじゃないだろうか。
なんだか透明な縄で学生たちが着々と縛られて行くようだ。しかも、縛っている人たちの瞳は、善意であふれている。「これが君たちのためなんだ」という言葉に嘘はないのだろうな。縛られている学生たちも、嬉々として自由を奪われているようにも見える。んー、やっぱり違和感あるなあ。何か感じないの、みんな?
帰りの車中で「同時通訳」読了。帰宅。入浴。喫飯。就寝。