私が生まれた日
私が生まれた日を小説風に書いてみました。私を産んで育ててくれた母と亡き父に感謝です。
残暑が厳しくとてもあつい日だった。小さな窓には先日父がつけてくれた庇(ひさし)はあったが、日は高く部屋の中を照らしていた。窓にひさしをつけるかつけないかという他愛もない言い争いが母と父の初めての夫婦喧嘩だったそうだ。母の頭の中には「最初の夫婦喧嘩には何あってもあんたが勝たんばよ。それで一生の夫婦の上下関係が決まるけんね」という祖母のアドバイスが頭に残っていた。結果は庇をつけてほしいという母が勝ち、昨日しぶしぶ父がひさしをつけてくれたのだ。
目が覚めるとお腹を差し込むような軽い痛みがあった。ラジオから中尾エミの「可愛いベイビー」という歌が流れていた。明らかに昨日とは違う感覚が体を走った。予定日まではあと一週間以上あったが、もしかしたら生まれるかもしれないと不安になり、隣に寝ていた父をゆり起こした。
実家の近くの病院で出産すると決めていた母は、慌てて荷物をまとめると、父と二人で島原鉄道に乗り込んだ。当時二人は母の実家から電車1時間ほど離れた島原の城下町に住んでいた。
島原鉄道は黄色い2両編成の電車だ。民家と民家をすり抜け、田園風景を過ぎると目の前に青い海が広がった。有明海の静かな海岸線を走る列車の中、当時24歳だった母親は不安と期待に胸を膨らませていた。そして電車が揺れる度に陣痛の間隔はどんどん短くなっていった。「その間隔で陣痛のきとったら、もうすぐ生まれてくるばい。実家に帰らんで、直接病院に行ったほうがよかですよ」と、向かいに座っていた50代のおばさんが耳打ちしてきた。
入院予定の出口病院は島鉄の本諫早駅の目の前だった。ちょうど両親が病院に到着した時時計の針は12時を回っていた。地元で評判のいい産婦人科だったので、出産は出口病院にしようと決めて予約は祖母に頼んでいたのだ。しかしのんきな祖母はまだ予約を入れておらず、母は名前を言ってもいきずりの妊婦だと間違われてしまった。痛みに身をかがめる母を置き去りに看護婦たちは昼食に出かけようとした。すると居合わせた地元のおばちゃんが「痛がっとらすよ。ちゃんと診てあげんね」と声を上げてくれた。病院は老朽化が進んでいて、翌年には建て替え予定だった。母はまるで厩(うまや)のような古びた狭い病室に通された。知らせを受けた祖母到着してすぐに私は生まれた。
外の世界はきっとまぶしかったのだろう。私は大きな声で鳴き、なかなか泣き止やまなかったらしい。祖母は私の体を両手で包み、小さく折りたたんだ。「お腹の中でお母さんに包まれとったけん。こうやって包んであげたらすぐに泣き止むと」と祖母がいった。私は祖母が言ったとおりすぐに泣き止んだそうだ。それから真っ赤な顔で力んで、最初の胎便を出した。その姿を見て祖母は「生まれてばっかりとに、よういきみ方は知っとるね」といい、病室に笑いが広がった。