自分史
2022年はバケットリストを作りました。死ぬまでにやりたい100のことを書き出して、サウナとか、キャンピングトレーラーとか、いくつか夢が実現しました。そのバケットリストの1つに自分史を書くというのがあります。今年は1年かけて自分史を書こうと決心しました。一人だと挫折しそうなので、友達を誘って4人で書き始めました。
2週間一度、仕事前の1時間リモートで集まって読み合わせをしています。「生まれた日のこと」「最初の記憶」「両親が結婚するまでのエピソード」など毎回お題を決めて、それぞれ書いたものを発表しています。
自分の歴史をさかのぼることは、自分が本当に大事にしていたことがわかるような気がします。
これは未来に向かう壮大な旅のようです。
書き出しはこんな感じです。
私が生まれた日
1962年9月6日は、残暑が厳しくとても暑い日だった。小さな窓には先日父がつけてくれた庇(ひさし)はあったが、日は高く部屋の中を照らしていた。窓にひさしをつけるかつけないかという他愛もない言い争いが両親の初めての夫婦喧嘩だった。母の頭の中には「最初の夫婦喧嘩には何があってもあんたが勝たんばよ。それで一生の上下関係が決まるけんね」という祖母のアドバイスが頭に残っていた。結果は庇をつけてほしいという母が勝ち、昨日しぶしぶ父が自分でつけてくれたのだ。
目が覚めるとお腹を差し込むような軽い痛みがあった。ラジオから中尾エミの「可愛いベイビー」という歌が流れていた。明らかに昨日とは違う感覚が体を走った。予定日まではあと数日あったが、もしかしたらもうすぐ生まれるかもしれないと不安になり、隣に寝ていた父をゆり起こした。
実家の近くの病院で出産すると決めていた母は、慌てて荷物をまとめると、父と二人で島原鉄道に乗り込んだ。当時二人は母の実家から電車1時間ほど離れた島原半島の鉄炮町という城下町に住んでいた。
島原鉄道は黄色い2両編成の電車だ。民家と民家をすり抜け、田園風景を過ぎると目の前に青い海が広がった。有明海の静かな海岸線を走る列車の中、当時24歳だった母親は不安と期待に胸を膨らませていた。そして電車が揺れる度に陣痛の間隔はどんどん短くなっていった。
「その間隔で陣痛のきとったら、もうすぐ生まれるばい。実家に寄らんで直接病院に行ったほうがよかですよ」と、向かいに座っていたおばさんが母に耳打ちしてきた。
入院予定の出口病院は本諫早駅の目の前だった。ちょうど両親が病院に到着した時、時計の針は12時を回っていた。地元で評判のいい産婦人科だったので、出産は出口病院にしようと決めて予約は祖母に頼んでいた。しかし呑気な祖母はまだ予約を入れておらず、いきずりの妊婦だと間違われてしまった。
看護婦は痛みに身をかがめる母を置き去りに昼食に出かけようとした。すると居合わせた地元のおばちゃんが「痛がっとらすよ。ちゃんと診てあげんね」と声を上げてくれた。病院は老朽化が進んでいて、翌年には建て替え予定だった。母はまるで厩(うまや)のような薄汚い病室に通された。知らせを受けた祖母が到着して間もなく私は生まれた。
外の世界はきっとまぶしかったのだろう。私は大きな声で鳴き、なかなか泣き止やまなかった。祖母は両手で私の体を包んで小さく折りたたんだ。「お腹の中でお母さんに包まれとったけん。こうやったらすぐに安心して泣き止むと」と祖母がいった。私は不安から解放されて泣き止んだ。そして真っ赤な顔で力んで最初の胎便を出した。
その姿を見て祖母は「生まれたばっかりとに、よういきみ方は知っとるね」といい、病室に笑いが広がった。