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放送通訳者直伝!

第353回 理念を頭に入れる

BBCで放送通訳を始めたころ、クリケットのワールドカップがありました。当時はインターネットもさほど普及しておらず、日本語で用語やルールを調べようにも難しい状況だったのです。そもそものルールがわからない中、同時通訳をせねばなりません。ずいぶん難儀しましたね。

そのときとった方法は、いわば「力技」です。対戦チームの勝敗だけ把握しておき、あとは優勝インタビューであれば勝者の喜びを念頭にそれらしく、敗者インタビューは負けて悔しいという思いを頭の中に描きながら通訳しました。あとは聞こえてくる単語と単語をつなぎ合わせて、何とか辻褄を合わせていたのです。今にして思うと冷や汗ものです。

とは言え、この方法が完全に間違いとは思いません。なぜなら通訳者は「話者の立場」を把握したうえで訳さねばならないからです。アメリカ大統領選で候補者を応援する人のインタビューの場合、共和党か民主党かを押さえたうえで訳す必要があります。環境問題しかり、紛争の和平交渉しかりです。「この人はどちら側の意見なのか?」を番組内で瞬時に把握していくのです。画面に出てくる名前と肩書、プレゼンターの紹介文などが頼りです。

立場さえつかめれば、あとはそれに大きく反れないことを念頭にすれば、聞き取り自体に集中できます。「この人のめざすところはどこか」をとらえることが大事なのです。

これは通訳に限らず、仕事全般において大切だと私は感じます。たとえば教育者の場合、目の前の生徒に何を教えたいかだけでなく、クラスや学年の目標を常に意識すれば、日々の授業に反映できます。さらに現在の学校目標や建学の精神、学是など、大きな視点に立つことで、どういった生徒を卒業させ、社会に送り出すかも見えてくるでしょう。

さらに鳥瞰図的にとらえれば、日本がどのような次世代を輩出し、国を支える人づくりにするかも考える必要があります。もっと広げれば、東南アジア、アジア太平洋、地球規模でどのような人が社会を支えるべきかとらえるべきです。「そのために自分は今、目の前の生徒たちに教えているのだ」ととらえれば、教える仕事も非常に責任重大であり、やりがいのあるものと改めて気づけるでしょう。

会社も同じです。日々の仕事が辛くなったら、所属チームや部の目標を見直したり、企業理念を確認したりすることで方向が見えてきます。会社のモットー、業界の目標、日本国内における位置づけ、世界にその業種がどのように貢献できるかを考えるのです。

このような視点に立つことができれば、自分がたとえ巨大組織の歯車のように思えたとしても、自身の仕事に大きな意味と意義が見いだせるはずです。自分が組織を、そして社会を支えているのだというプライドは人を前進させてくれます。

ずいぶん前に私は非常に難しい学術会議の通訳を仰せつかったことがあります。専門家の方々ばかりが参加するセミナーで、予習量が膨大でした。「これほどの専門用語は日常生活でお目見えしないのに」と、その難解さに音を上げたほどです。けれども自分が通訳をすることにより、その分野の学説は国際的に共有されることになります。そして専門家同士が交流を図れるのです。それがいずれは一般市民に還元されるのですよね。そう考えると、自分も微力ながら社会の一部を支えていると思えます。

近視眼に陥りそうな時ほど、理念を見直してみることが大切です。

(2018年5月14日)

【今週の一冊】
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"Made in North Korea: Graphics From Everyday Life in the DPRK" Nicholas Bonner著、Phaidon、2017年

2月にロンドンへ出かけました。オフシーズンなのに街中は人だらけ。人気の博物館も人混みが予想されました。そこで穴場ギャラリーを探したところ、キングス・クロス北側の再開発地域にあるミュージアムを発見しました。House of Illustrationです。

そのとき開催されていたのが"Made in North Korea: Everyday graphics from the DPRK"です。北朝鮮のポスターやパッケージデザインなどのオリジナルが多数展示されていました。なかなかお目にかかれないアイテムばかりです。

展示会ではプロパガンダ・ポスターだけでなく、漫画やコンサートのパンフレット、機内グッズなども見られました。雰囲気としては昭和時代の日本という感じです。デザインはとても精巧で、芸術的にも味わい深いものでした。

今回ご紹介するのは、その展示会の内容がすべて網羅された一冊です。著者のBonner氏はイギリス出身。景観設計を専攻し、中国建築に魅了されて中国へと渡ります。そこで友人と北朝鮮向けの旅行会社を興したそうです。その後、シェフィールド大学での指導ポジションをオファーされたものの断り現在に至る、と前書きには書かれていました。

本書をめくると北朝鮮のデザインがオールカラーで味わえます。南北首脳会談も開催され、米朝首脳会談への期待も高まる今、政治とは別に一般の人々の生活を垣間見られる「デザイン」に注目するのもお勧めです。



第352回 わかりやすく伝えるには

まだ実家に暮らしていたずいぶん前のこと。今ほどヨガやピラティスなどが流行していない時代でした。ある日突然、「ヨガをやってみたい」と思い立ったのです。そこで通っていたジムのヨガ・レッスンを受けてみました。

おそるおそる出てみると、参加者は昔からの常連さんばかり。私はスタジオの後ろ端にひっそりと場所を確保しました。緊張しながらのレッスン開始です。

先生は長年教えていらっしゃるらしく、ヨガの知識が豊富。ためになるお話もたくさんしてくださいました。ただ、私には最後までモチベーションが今一つ上がらないレッスンだったのです。

その理由は「専門用語」でした。具体的にはヨガのポーズ名です。経験者の方々はカタカナのポーズ名だけで動くことができます。一方の私は全くの初心者。手や足をどの順番でどう動かせばよいかわかりません。ヨガの場合、いつもスタジオ前方を見ながらポーズをとれるとは限りません。下や後ろを向いたまま、新たな動きが加わることもあるのです。よって、「手を動かして」「お腹に力を入れて」「そのまま左足を後ろに」などと言われた方が動きやすいわけです。そのクラスは「初心者OK」と銘打ってはいました。しかし、私にとってはレッスンの終わりまでハテナマークが頭の中に浮かんだままでした。

それからしばらくして別の先生のレッスンに参加しました。同じく初心者向けです。このときは全く異なる印象を抱きました。なぜならその先生は難しい外来語ポーズ名は最小限にとどめ、どの筋肉を意識すべきか、今何に集中すべきかをわかりやすく説明してくださったからです。スタジオ前方の先生が見えなくても、耳から聞くだけで動きについていくことができました。レッスン終了時は「やった~!」という達成感で満たされたのです。

どのようにすればわかりやすく伝わるか。

これは誰にとっても考えるべき課題だと思います。先日読んだ文献でも、話が伝わらないのは聞き手ではなく話し手に非があるとありました。難しいことを相手に理解してもらえるように話すことは、話し手の責任なのです。東京外国語大学の岡田昭人教授も「jargonや難しい語は使うべきでない」と著書で書いておられます(「オックスフォード流 自分の頭で考え、伝える技術」PHP研究所、2015年)。

特に通訳業に携わる者にとって、これは大変重要です。なぜなら聴衆は耳から入ってくる音声だけが頼りだからです。「コーギ」が「講義」「抗議」「広義」なのか、「ブソーホーキ」が「武装放棄」「武装蜂起」のどちらかと言ったことを明確にせねばなりません。

フリーで通訳の仕事をしていると、毎回さまざまな仕事が舞い込みます。そのたびにいわば「にわか専門家」に一日も早くなれるように私たちは準備を進めます。限られた時間の中でリサーチをしていると、どうしても表面的な理解にとどまってしまうこともあるのです。

猛勉強と予習の結果、本番では確かに英単語を聞いて瞬時に訳語は飛び出すでしょう。けれども本質的な内容を深く理解しないままであれば、うわべだけの通訳に終わりかねないのです。

だからこそ、事前準備からはもちろんのこと、業務終了後も自分のパフォーマンスをしっかりと反省せねばと感じます。さらにオフシーズンのときにはなるべく多様な分野のトピックに触れるよう心がけます。その積み重ねがお客様にとって「より聞きやすいアウトプット」につながっていくのです。

(2018年5月7日)

【今週の一冊】
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「中銀カプセルタワービル 銀座の白い箱舟」 中銀カプセルタワービル保存・再生プロジェクト編著、青月社、2015年

建築関連の本が好きで、書店や図書館などで見かけるとつい手にしてしまいます。建築学に詳しいわけではありませんが、外観の美しさや内装デザイン、建築家の思いやそこに暮らす人の生活などに興味があるのですね。時代により建築スタイルも変化しています。古くからある建造物を目にすると、世界や日本の大きな流れを感じます。

今回ご紹介するのは銀座にある「中銀(なかぎん)カプセルタワービル」をテーマにした一冊です。箱の一つ一つがポコッと飛び出している独特の外観です。その独創性あふれるデザインは、道行く人を立ち止まらせる魅力があります。

この建物はオフィスビルではなく、東京の一等地に建てられた集合住宅です。設計は黒川紀章氏。竣工は1972年、メタボリズム様式の代表作品です。

ページをめくるとここに暮らす人たちが紹介されています。丸窓はまるで豪華客船のよう。しかも室内の面積はわずか10平方メートル!このカプセルは滋賀県の工場で作られ、一つずつトラックで運ばれてきたそうです。1970年代当時の内装で生活している方たちもおり、カラー写真からはレトロな雰囲気が醸し出されています。

10年ほど前に建て替えが検討されたものの、結局、そのままの形を残すこととなった中銀カプセルタワービル。カプセルの一つは2012年に埼玉県立近代美術館へ寄贈されました。緑豊かな北浦和公園の中に設置されています。



第351回 「支える」ということ

先日のこと。とある音楽関連のイベントに出かけてきました。特別ゲストあり、トークありの楽しい企画でしたね。プログラムの最後には演奏もあり、大いに盛り上がりを見せた夕べでした。

その演奏グループの中の一人は私の小学校時代の同級生でした。もうずいぶん前の同級生ということになります。ずっと音信が途絶えていたのですが、プロミュージシャンとして活躍していることは、風の便りで聞いていました。そして今回、思いがけずその舞台を見ることができ、改めて小学校時代を思い出したのでした。

過日も放送通訳で出入りしているテレビ局においてちょっとした発見がありました。局内の人事異動告知が壁に掲示されていたのです。そこには昔のクラスメートの兄弟の名前がありました。珍しい名前でしたので、すぐにわかりましたね。今は某国の特派員として活躍しているようです。

私は小学校から中学校にかけて4回転校しています。「幼なじみ」と言える人はいません。オランダやイギリスで通った現地校の友人とも疎遠になりました。しかもロンドンの学校に至っては、10年前に近所の学校から吸収合併され、100年以上続いた校名もなくなっています。それだけに、私にとっては数少ない日本人の友達が今、世界のどこかで活躍している様子を見るのは、大きな励みなのです。

子どものころは「社会の一員としての自分」など想像すらしていませんでした。友達と笑ったりけんかをしたり、勉強で苦労したりということだけが自分の世界のすべてだったのです。けれども人間というのは、幼少期に自分が得意としていたことや好きなこと、さらに経験などが後の「自分の仕事」に到達するのだと私は思います。

「人の一生は長いようで案外短い」と最近私は感じます。ついこの間、大学を卒業して社会人になったように錯覚してしまうのです。けれども卒業時から今まで働いてきた年月よりも、定年への月日の方が今や短くなりました。もっともフリーランス通訳者に厳密な定年はありませんし、人生100年とさえ言われる時代です。どのように自分は生きるか、改めて考えさせられています。小学校時代の数少ない友が社会で活躍している姿を見ると、まだまだ自分も努力の余地があると感じます。

以前、ある講演会で登壇された方が、「世界のどこかを支える人になる」ことの大切さを唱えておられました。人にはそれぞれ与えられた役割があります。ゆえに誰もが社会の、そして世界のどこかをサポートしているのですよね。これは有名になるとかリーダーシップを発揮することとは違います。自分にしかできないことを誠意をもって取り組み、社会に貢献することだと私は思います。

2年前に亡くなられた福祉活動家の佐藤初女先生も、「奉仕はさりげなく、振り向きもしないで」と生前おっしゃっていました。社会を支えるということ。世界を支えるということは、そのようなことなのですよね。

平均寿命が延び、「人生100年時代構想」と言われるからこそ、私も自己研鑽を怠らず、心身の調子を整えて社会のお役に立てるよう、歩み続けたいと考えています。


(2018年4月23日)

【今週の一冊】
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「中国語通訳トレーニング講座-逐次通訳から同時通訳まで」 神崎多實子、待場裕子著、東方書店、2016年

出講先の大学図書館が好きで、授業後には必ず立ち寄ります。真っ先に向かうのは新刊本コーナー。書店ほどの速さで入荷するわけではありませんが、それでも数か月前に発行された書籍が大学図書館のこの棚には並んでいます。ありがたいことです。

私の場合、本業が通訳ですので、「通訳」「翻訳」「語学」「英語」などの語が並ぶ書籍は要チェックです。もちろん、今の時代はこのトピックを網羅した書籍がたくさん発行されています。ゆえにすべてに目を通すことはできませんが、アンテナにかかったものだけは丁寧に読むよう心掛けています。

今回ご紹介する本も、そのような一冊です。中国語は全くわからないのですが、通訳訓練の方法や通訳者としての心構えを知るため、手にとりました。本書は自主学習する上でも取り掛かりやすい構成になっており、実践問題もたくさん紹介されています。めくるごとに「中国語がわかったら楽しそう」という思いを抱ける本です。

シャドーイングの効果や方法、サイトトランスレーションなど、中国語以外を専攻する人にも役立つ情報が満載です。また、巻末には質疑応答形式で通訳業に関する説明もあります。エージェントとの関わり方、休暇中に通訳者はどのように自己研鑽をするのかなど、読んで楽しい内容です。中国語がわからなくても通訳業そのものに興味がある方にぜひお勧めしたい一冊です。


第350回 「誰のため?」を常に

通訳者に必要な能力として語学力と知識力が挙げられます。同時に私が重視しているのが「体力」。集中力を維持して同時通訳をするためにはスタミナが必要です。よって体力増強を図るべく、定期的に私は運動をしています。

スポーツクラブに行き始めたのは大学卒業直後のこと。会社との往復だけで運動不足を痛感したからです。エアロビクスやリラックス系のプログラムが充実したジムを選びました。そこで経験したとある出来事を今でも思い出すことがあります。

私がそこで受けたのはリラックス系のレッスンです。そのインストラクターは教え方が非常に上手で、私はそのクラスが大好きでした。そこでその先生の燃焼系プログラムにも出てみたのです。

ところが長続きしませんでした。

そのレッスンはエアロビクスだったのですが、動きがとても凝っており私にはついていけなかったのです。他のメンバーさんたちはとても上手で、私だけ足がもつれそうになりながらの1時間レッスンでした。スタジオのあちらこちらへ動くため、私は周囲にぶつからないようにと神経を使い、手を上げたり足を上げたりの動作は数カウント遅れる始末。お手本の先生の動きは無駄がなく美しく惚れ惚れするほどでしたが、私にはどう頑張っても無理だったのです。私には消化不良・不完全燃焼のレッスンでした。

「先生は好きだけどついていけない。周りのメンバーさんにも迷惑だから、このレッスンはやめよう。」

そう思った私は、やがてその先生のクラスそのものから足が遠のいてしまいました。

それからしばらく経った頃、別の先生の燃焼系クラスに出てみました。

そのインストラクターさんはレッスン前の説明で「このプログラムを皆さんに好きになっていただきたいんです」と繰り返しおっしゃっていました。そのレッスンをこよなく愛している様子がうかがえます。「振付についていけなくても大丈夫。別の簡単な動きをお伝えしますから、ぜひそちらで動いてくださいね」と述べていました。

実際、レッスンが始まってみると、上級者はハードな動きを、一方、私のような初心者はオプションで動くことができ、あっという間にレッスンは終わりました。汗もたっぷりかき、音楽も楽しめて達成感に満たされました。

この出来事は私自身の通訳授業にも通じると感じています。と言いますのも、授業の教材を選ぶ際、どのレベルに照準を合わせるかで悩むからです。

駆け出しのころは「通訳者を目指すなら、これぐらい難しい教材を」と意気込んで指導していました。けれども、私がアウトプットの見本を示しても受講生は「はあ、お見事~」という表情です。実際のパフォーマンスをそれぞれ披露してもらっても、尻込みしてしまったり不完全な訳出だったりということが続いたのです。結局、その授業は空振りに終わり、私自身も指導面で反省点を感じました。そしてそれ以上に受講生たちは、「せっかくお金を払って授業を受けたのに」というフラストレーションだけが残ったことでしょう。

私がそこから得た教訓。それは指導にしても通訳現場においても、教員や通訳者が「どや~!」と披露する場にしてはならない、ということでした。通訳の授業は演習型ですので、主役はあくまでも「学ぶ側」です。学習者が「今日、この授業に出て良かった」と思えるような満足感を提供せねばならないと感じます。会議通訳も同じです。通訳者が「千本ノックをとった」となるのではなく、聞き手が「今日、この会議に来てよかった。内容がよく分かった」と満足していただく必要があります。

仕事というのは「誰のために?」を常に意識しながら進めるものだと感じます。


(2018年4月16日)

【今週の一冊】
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「埼玉たてものトラベル」 埼玉たてものトラベル委員会編、メイツ出版、2015年

旅先でウォーキングツアーに参加するのが好きです。先日訪れたロンドンでは第二次世界大戦中に造られた地下壕のツアーに参加しました。ガイドさんが戦時中の様子や地下壕の使用用途などについて詳しく説明してくださり、非常に楽しかったですね。

今回ご紹介するのは埼玉県内の建物に関する一冊です。邸宅や公共建築物などの歴史的建造物には欄間や柱、ドアや窓などに美しいデザインが施されています。そのようなディテールに注目したい方にお勧めしたいのが本書です。

東京から電車で30分ほど出かければ、埼玉県内の珍しい建物を訪ねることができます。たとえば鋳物の街として知られる川口市内には、「旧鋳物問屋・鍋平別邸」があります。おしゃれな洋館の中には美しいステンドグラスがあり、まるで神戸の洋館のようです。一方、新座にある「立教学院聖パウロ礼拝堂」は著名な建築家アントニン・レーモンドが設計しています。さらに県北まで足を延ばせば、深谷の赤レンガを味わうこともできます。

巻末には埼玉の隠れた名産品も紹介されています。東京から日帰りコースで楽しめる埼玉県。本書を片手に建物巡りをすれば和洋・新旧の建築物を味わえるでしょう。


第349回 覚悟と潔さ

通訳者としてまだ駆け出しだったころ、恩師や先輩に言われたことがあります。それは「エージェントへの礼儀を守ること」でした。

フリーで活動する場合、私たちは人材派遣会社、すなわちエージェントに登録します。私もデビュー直後、複数の会社から運よくお仕事をいただけるようになりました。エージェント側は本人の実力に合った業務を厳選して依頼をしてきます。そして仕事のたびにエージェント側も難易度を上げていき、結果として私たち通訳者はエージェントにより育て上げていただくことになるのです。

デビュー初期の通訳者は、まだ右も左もわかりません。業界についてはおろか、臨機応変な対応についても初心者です。いきなり難しい分野の通訳をさせたり、要求の高いクライアントさんのところに放り込んだりしてしまえば、苦戦するのは現場の通訳者本人です。お客様が望む実力も発揮できず、結果として信頼問題に関わります。ですのでエージェントは慎重に仕事を割り振るのですね。私自身、振り返ってみるとエージェントからはお仕事の貴重なチャンスをいただき、新たな勉強分野を学ぶ機会を得て、さらにお給料もいただいて育てていただいたと感じます。今の自分があるのもエージェント抜きには考えられません。だからこそ、「エージェントへの礼儀」というのは非常に大切だと思います。

ところで通訳現場へ出かける際、私たちはエージェントの名前入りの名刺を持参して行きます。名刺交換時は自分の個人名刺ではなく、あくまでもエージェント名刺を使います。たとえ自分が個人事業主でオフィスを構えていても、たとえ自分の業務用ウェブサイトを開設していても、エージェントから派遣された以上、自分は「エージェントの一員」なのですね。プライベートのメールアドレスをお伝えするのもNGです。

では、エージェントから出向いたにも関わらず、個人の連絡先が記された名刺を相手へ差し上げてしまえばどうなるでしょうか?おそらくお客様は「え?この通訳さんと直接取引ができるの?ならばエージェントへの手数料は省けるのだから、これからはダイレクトに依頼しよう」という思いになるでしょう。景気後退と言われて久しい昨今ですので、企業側も経費削減ができるのであればそれに越したことはないからです。

そのようにして直接そのお客様と取引するようになれば、確かにお客様側は手数料を節約できますし、通訳者も自分の言い値で通訳料を請求できます。お客様と通訳者双方にとってwin-winです。けれども、そのようなことをしてしまえばせっかくエージェントの営業スタッフが大変な思いをして開拓したお客様を通訳者が横取りすることになります。業務妨害とも言えるのです。ゆえに通訳業界では、エージェントを飛び越えて直接取引するのはルール違反です。「発覚しなければ大丈夫なのでは?」と思えど狭い業界です。いずれ知られるところとなり、通訳者の信頼も落ちてしまうでしょう。

これを書きながら思い出したことがあります。今から15年ほど前にお世話になっていた女性整体師さんです。彼女はとある商業施設内のチェーン店で働いていたのですが、ある日の施術後のこと、「今月末で退職することになりました。柴原さんには今まで本当によくしていただきありがとうございました」と小声で知らせてくださったのです。プライベートについては存じ上げていませんでしたので、「結婚退職?ご主人の転勤?留学?」などの思いが去来しました。尋ねてみると「実は独立します」とのこと。ニコニコと笑顔ではいらしたものの、それ以上はおっしゃいません。

「うーん、せっかく相性も良くて施術も気に入っていたのに残念!」と思った私は、思い切ってこう言いました。「あの、もしお差支えなければ、お店の場所などを教えていただけませんか?」

実はこのように尋ねること自体、私には気が引けました。何しろ彼女はまだそのお店の現役スタッフですし、もし私が彼女の後を付いていき、今のお店に行かなくなれば、彼女の上司や同僚が「退職と共に彼女はお客様を持っていった」と思わないとも限りません。通訳業界でのルールを知る分、そこは私も慎重にせねばと思いました。

彼女も一瞬、どう反応して良いか迷っていたようでしたが、私の名刺を受け取って下さいました。そのやり取りもあまり目立たない形でしたね。「今のお店は大好きで、こうして育ててもらったことに感謝しています。でも独立することは昔からの夢でした」とも述べていました。最後の最後まで自分が働いていたお店へ気配りを示していたのです。

そして数週間が経ち、独立後のお店の案内が郵送されてきたのですが、あいにく私も引っ越したり多忙になったりで、結局彼女の元へ行く機会を逸してしまいました。けれども自分一人で店舗を立ち上げ、自分の腕一本で開拓していった彼女は本当に素晴らしいと思ったことは鮮明に覚えています。

私よりもずいぶんお若い方でしたが、その覚悟と潔さに今なお私は敬意の気持ちを抱きながら思い出しています。 

(2018年4月9日)

【今週の一冊】
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「ニッポン・ビューティ」 Grazia編集部編、講談社、2009年

私は「芋づる式読書」が好きで、何かきっかけがあると、そこから関連本をどんどん読み進めることを楽しんでいます。今回ご紹介する本も、そのような流れで出会った一冊でした。

きっかけは後藤新平の伝記を読んだことでした。そこには相馬事件について書かれていたのです。相馬事件というのは明治に起きた相馬家をめぐるお家騒動です。「相馬」と言えば、「難民を助ける会」を興された相馬雪香さんがいらしたなと思い出したのでした。ちなみに相馬さんは同時通訳者の草分けであり、お嬢さんは今も現役で活躍なさっている原不二子先生です。

相馬雪香さんについて早速調べたところ、インタビューが見つかりました。それが本書だったのですね。この本はファッション雑誌Graziaに掲載されたもので、相馬さんを始め、三木睦子さんや朝倉摂さん、黒柳徹子さんなども登場しています。私が敬愛する佐藤初女先生も出ていました。いずれも時代を切り開いてきた女性たちです。

どのインタビューも読みやすく、励まされる言葉もたくさんありました。いくつかご紹介しましょう。

「ひどいことを言った相手に口答えしていたら相手に引きずられたことになる。私はそれよりも、自分が理想とする私でいよう」(渡辺和子)

「人生の折り返し地点は50歳。そこからは、残る時間を自分の決めた目的に向かって進むしかない」(堀文子)

「言葉は人が生きていくための、助けになってくれる」(田辺聖子)

今とは価値観も社会もすべて異なる時代を生き抜いてきた素晴らしい女性たちです。元気が欲しい方にぜひともお勧めしたい一冊です。



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プロフィール

柴原早苗

柴原 早苗さん
放送通訳者。獨協大学・順天堂大学非常勤講師。 上智大学卒業、ロンドン大学LSEにて修士号取得。 ロンドンのBBCワールド勤務を経て現在はCNNj、CBSイブニングニュースなどで放送通訳者として活躍中。 NHK「世界へ発信!ニュースで英語術」ウェブサイトの日本語訳・解説を担当。 ESAC(イーザック)英語学習アドバイザー資格制度マスター・アドバイザー。 通訳学校にて後進の指導にあたるほか、大学での英語学習アドバイザー経験も豊富。 著書に「通訳の仕事 始め方・稼ぎ方」(イカロス出版、2010年:共著)、「英検分野別ターゲット英検1級英作文問題」(旺文社、2014年:共著)。 「放送通訳者・柴原早苗のブログ」 http://sanaeshibahara.blog.
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